2019年8月4日 説教要旨 松岡俊一郎牧師

力ではなく愛を頼りに

ヨハネによる福音書 15: 9 – 12

日本と韓国の関係が急激に悪くなってきました。一般人の関係の中では実感がありませんが、政治、外交関係ではかつてないほどに冷え切っているそうです。中心の事柄は、日本の貿易優先国(ホワイト国)から韓国を外したことにあります。日本は国内的な措置だと主張しますが、背景には韓国の最高裁が元徴用工への賠償命令を出したことへの報復と考えられており、慰安婦問題があることは火を見るよりも明らかです。これまで韓国では反日を掲げると政権への支持率が上がるとされて来ました。文現政権もそれに倣っています。日本においても同様です。国内に問題があると国民の目を外国に向けることによって収めようとする政治手法がありますから、安倍政権も改憲を人知れず進めるために国民の目を韓国や北朝鮮に向けようとしているのではないかと、私は個人的に思っています。

多くの関係は力関係で成り立っています。人間関係においても、仕事の取引関係も、国と国の貿易も経済力を背景とした力がものを言います。軍事力は力そのもので、特にアメリカや中国、ロシアなどの軍事大国は、この軍事力で他の国を威圧し、侵略し支配しようとします。そこにはいつも緊張感が付きまといますし、民衆の悲しみと苦しみがあります。平和を実現すると言いながら、支配力を強めるだけで平安な気持ちになることはないのです。平和の中身が見て取れます。イエス様がゲッセマネの園で「剣をさやに納めなさい。剣をとる者は皆、剣で滅びる」と言われたととおりです。

人間の歴史は闘いの歴史、戦争の歴史です。それは私たちの考えや努力では戦いをなくせないという事です。私たちの社会は、悲しいかな欲望中心に動いています。自分の利益になることを最優先にします。もちろんそこには人間の理性と知恵はあるのですが、それでは追い付かないのです。追いついていれば、闘いのない世界が実現すると思うのです。私は追いついた唯一の例が日本の平和憲法だと思っています。戦いに明け暮れ、二百万人とも言われる多くのいのち、犠牲を払うことによって、もう二度と国と国の紛争解決のために戦争はしないと決意したのです。そして74年間戦争をしない国であり続けたのです。理性と知恵の勝利です。今日の旧約聖書の日課で預言者ミカは「彼らは剣を打ち直して鍬とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」と言っています。神様の国が実現するとき、武力を放棄し、闘いについてもはや学ぶ必要がない、と言うのです。その意味で現在の憲法はその理念を共有していると言っていいと思います。しかし私たちの国は今やアメリカから武器を爆買いし、海外に出かけて戦争する国になろうとしています。力に頼る外交関係で押し通そうとしています。そのために憲法を変えようとしています。もしそれが現実になれば、理性と知恵が欲望と武力に敗北です。私たちが求めるのは、神様の国が、神様のご支配がこの世に現実に起こることです。そのために平和を作り出すことが求められています。抑止力に裏打ちされた緊張状態が平和でなく、武力に頼らない生き方、力によらない世界を作ることが使命です。武力によって平和を作ることはできません。武力は、緊張、不信、欺瞞、悲しみ、痛み、苦しみ、憎しみ、復讐心、そして死を生み出します。とてつもない桁違いの費用が必要になり、様々な自由が制限され人々の暮らしを不自由にします。武力によって平和が作れる、保たれるというのは幻想です。武力による平和を目指した結果が、広島と長崎の原子爆弾による惨劇であり、テロにおびえる世界です。力に頼らない世界平和を求めることを絵空事と非難する人々は、この怯えと幻想に支配されているのです。

平和を作る鍵は一人一人の心です。使徒書の日課にあるように、個人の心にある敵意を取り除かなければ、人間関係の平和も国同士の平和を築くことなどできません。人の自己中心的な罪は私たちのすべてを支配します。この自己中心的な罪は他者と共に生きることを難しくしていますし、争いを生み出す根本です。それでは私たちの世界は絶望的なのでしょうか。平和を望むことはできないのでしょうか。そうではありありません。なぜならキリストが敵意という隔ての壁を取り除いてくださったからです。十字架によって敵意を滅ぼし、まず私たちを神様と和解させ、私たちを新しい人として作ってくださいました。それは私たちに対する愛にほかなりません。この愛こそが、先ほど挙げた武力によって生み出されるあらゆるものを取り除き、私の心から敵意を取り除くことができ、互いを愛することができるのです。私たち自身の中にもすでに愛する心、平和を求める心は存在します。しかしそれを誤った方法によって得ようとしています。今一度キリストの愛に立ち戻って、神様が求める生き方をする必要があるのです。

世界はいろいろな思想や考え方、秩序によって動いています。資本主義、民主主義に生きている私たちの考え方が、万国共通ではありません。共産主義には共産主義国の考え方があり、イスラム教にはその独自の文化があります。そのような世界に聖書の教えがすぐに通用するわけではありません。さらに罪は神様の働きである愛を拒みます。しかしそれでも私たちはこの聖書の愛の教えは真理だと信じ、確かに人の敵意を取り除き、愛こそが平和を実現することができると確信するのです。ここに私たちの希望があります。そして私たちがどう生きるべきかの生きる使信があります。この敵意に満ちた世界がもはやどうにもならないのではなく、一人一人が愛の気持ちを持ち、その愛を実践するならば、神様が約束された平和は実現するのです。