2019年7月21日 説教要旨 松岡俊一郎牧師

誰の隣人になるか

ルカによる福音書 10: 25 – 37

ユダヤ人たちの間には律法という守るべき規範がありました。聖書に登場する人々の生活はこれを忠実に守ることが前提となっています。やがてそこには、律法を守りさえすれば、すべてがOKという考えも生まれます。律法にはモーセが受けた律法のほかには後の時代に加えられた多くの言い伝えが含まれていました。そして人々はむしろこの言い伝えを大事にしていたのです。イエス様は、教えの心を理解しないで、形だけ、形式だけ、表面だけのかかわりで良しとしていることに強い憤りを感じておられました。

今日の福音書の日課には、善きサマリヤ人のたとえが書かれています。サマリヤ人とユダヤ人とは犬猿の仲でした。この関係から言うならば、サマリヤ人こそ道の反対側を通ってもよかったのです。しかし彼は「その人を見て憐れに思って」介抱するのです。この「憐れに思って」という言葉は、「はらわたがちぎれるほど」の気持ちを表す言葉です。ここに素通りした人々とサマリヤ人の違いがあります。素通りした人々は自分の立場、自分の都合、自分の理屈で素通りしていきました。しかし、このサマリヤ人は立場や都合、理屈ではなく、憐れに思うというただ一つの心で傷ついたユダヤ人に接したのです。これは愛です。この愛には打算や計算はありません。この愛はお金も時間も力も労力も惜しまず働くのです。だからこそ、このサマリヤ人の行動とイエス様の「行って、あなたも同じようにしなさい」という言葉は、わたしたちを追い求めるのです。

時として、この問いかけにわたしたちは、それが出来ていない後ろめたさを感じてしまいます。そしてこの問いにさえ素通りしてしまおうとする自分を感じます。しかし、このたとえはわたしたちに後ろめたさだけを与えるのではありません。このサマリヤ人のように、いやそれ以上の愛をわたしたちに向けてくださるお方があるからです。道の反対側を通るのではなく、私たちのただ中にあって、傷ついた者の傍らに立ち、傷ついた者を癒し、傷ついた者を救われるお方がいるのです。それは世界中の傷ついた人の中におられます。戦争や虐待、差別や貧困、孤独や悲しみ、いろいろな状況の中の傷ついた人の隣人となってくださるキリストがおられるのです。まず、キリストが善きサマリヤ人としてわたしたちに仕えてくださり、私たちを癒し、救ってくださるのです。そして少しでも元気を与えられた私たちは、今度はわたしたちが善きサマリヤ人として歩みだすのです。その場所、その方法は一つではありません。広く世界に向けて働きだすこともできます。国内や地域に目を向けることもあります。人間関係や家庭の中で出来ることもあるのです。

「わたしの隣人とはだれか」と尋ねた律法の専門家に対して、イエス様は「誰がその人の隣人になったか」と問われました。隣人というものを狭めて考えて関係をそこだけに限定しようとする律法の専門家。それに対してイエス様は「誰が隣人になったか」と問われます。その問いは「誰がわたしを必要としているか。」「わたしは誰のもとに駆け寄るか」というわたし自身への問いに変わっていくものだと思います。出会った助けを必要とする人に心を砕き祈る、時間や労力や資金を提供する、それが愛の行為であり、イエス様があなたも同じようにしなさいと言われるのです。