2019年7月14日 説教要旨 松岡俊一郎牧師

歓迎されない主イエス

ルカによる福音書 9: 51 – 62

多くの方が教会の門をたたき、礼拝に出席され、何人かは洗礼を受け、信仰生活を続けられます。しかしその信仰を生涯にわたって全うされる方は多くはありません。牧師の言動に躓いてか、教会の人間関係に躓いてか、教会が期待していたものと違うと感じられるか。残念なことですが、多くの方々が教会を去って行かれます。教会の宣教の現実です。

今日の福音書を見ますと、宣教の難しさとイエス様に従うことの難しさを改めて感じます。イエス様ご自身が福音を宣べ伝えようとされていても人々はそれを受け入れない。客観的に言えば、イエス様の伝道も失敗の繰り返しです。また、イエス様を信じる人も、いったんは受け入れてもそれを貫くことができないのです。洗礼を受けても信仰生活を続けることが難しい姿を表わしています。

イエス様に対して「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」という人がいました。この人は本気でそういったのだろうと思います。私たちも洗礼を受ける時には本気です。ところがイエス様は「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」と言われるのです。イエス様の歩む道の険しさが語られています。別の人に今度はイエス様の方から「わたしに従いなさい」と言われます。彼は「まず、父を葬りに行かせてください」と言いました。ユダヤ人にとって父親を葬ることは、律法の学びをすることよりも優先されるべきことでした。しかしイエス様は「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい」と言われます。

どうしてこれほどまでにイエス様は厳しいのでしょう。イエス様にとって、神の国を宣べ伝えるということは、最も優先されるべきことでした。イエス様がそこに集中しておられたのは、今日の福音書の冒頭の一節からもわかります。エルサレムに向かう、これから受けようとされる十字架によって神の国を実現しようとされる、その並々ならぬ決意がそこに現れているのです。ここに神様に従う厳しさが感じられます。しかし、この厳しさは私たちにとっては従うことの難しさになるのです。

神様が命じられたことに従う。それは何の留保も許されません。すべてに優先されるのです。イエス様の招きも差し迫った救いのためであり、最優先課題なのです。しかしわたしたちには、目の前の生活が大切です。切実なことです。それを捨てて、すべてに優先してイエス様に従うことは大変難しいのです。ある金持ちの青年の話を思い出します。永遠の命に入るためにどんなよいことをしたらいいですかと尋ねる青年に、持ち物をすべて貧しい人に施しなさいと言われます。これを聞いた青年は悲しみながら去って行きました。物や財産に対する執着だけではありません。仕事、家族、友人関係、趣味、生活そのものに、わたしたちは強い愛情やこだわりを持っているのです。しかしイエス様はそれらよりもまず、神の国を広めること、そのためにイエス様に従うことを求められるのです。

今日、わたしたちにも従うことが求められています。私たちはどうするでしょうか。弟子たちの多くがそうであったように、従う気持ちがあっても、それを全うする自信がありません。私たちも従うことは出来ません。一緒に居続けることはできません。とても残念です。しかし、私たちが一緒に居続けられなくても、私たちが従い得なくても、イエス様が私たちのところに来てくださるのです。イエス様を裏切り、散り散りに逃げ去り、家に鍵をかけて隠れていた弟子たちのところにイエス様は、イエス様のほうから来てくださいました。もう一度、神の国の宣教のために弟子たちを招かれたのです。私たちがイエス様に従い得なくても、躊躇していても、逃げ腰であっても、イエス様の方から来てくださるのです。