2019年6月16日 説教要旨 松岡俊一郎牧師

真理を解き明かす霊

ヨハネによる福音書 16: 12 – 15

今日は三位一体祝日です。教会の暦は通常イエス様の生涯をたどりながら決められていますが、この主日は唯一教義的な主日です。イエス様が語られた言葉から教会によって考えられた神様の姿です。姿と言っても見た目の形ではありません。三位一体とは、神様を父と子と聖霊の三つでありながら一人の神としてあがめる信仰です。それは三つの神様がおられるのではもちろんありません。さらに、一つの神様が三つのお姿を持っておられるのでもありません。この父と子と聖霊を「位格」と言います。この位格ペルソナとは人格Personの語源となる言葉で、もともとは役者が舞台で演じる時のお面のことでした。能楽などのお面を思い出してください。つまり役者がそれぞれのお面をつけて、それぞれの役を演じるのです。それじゃ、やっぱりひとりの神様が三つのお姿を持っておられると言っていいではないか。確かにそれに限りなく近いと言うしかないのですが、ひとりの役者が一つの役を演じている場合、その役者は他の役を演じられないわけですが、三位一体の神はそうではない。たしかに父がおられる時には、子もおられ、聖霊もおられるのです。ひとりの人がいくつもの役を同時に演じているともいえないのです。それじゃ、どうなんだ、ということになりますが、ひとりの神が、私たちと向き合ってくださるその存在の仕方として、関係の持ち方として、父と子と聖霊の三つの姿として向き合ってくださる。すべての創造者としての父なる神、私たちの苦しみや悲しみを一緒に負ってくださるキリスト、私たちを支え、父なる神とキリストへとつないでくださる聖霊。私たちはいつも同じ状態、同じ心ではありません。絶えず変わり続けています。神様はそのような私たちのその場その場において私たちと共にいて向き合ってくださるのです。これが多神教の神様と違うところです。たとえば山の神、海の神、火の神、水の神など、日本の中でたくさん祭られている神も、山の神は山を相手に生業としている人にとっては神であっても、海で働く人にとっては関係ないと言えば関係ないのです。陶芸をする人にとっては窯の中には火の神様がいますが、水の神様はそこにいてもらっては困るのです。しかし父と子と聖霊の神様は、どんなときにも父と子と聖霊なる神として私たちの前におられるのです。ひとりの神様が私たちのどんな場面においても相対してくださる。つまり、父と子と聖霊なる神様は、私たちのありとあらゆる場面におられる、まさに共におられるのです。

今日の福音書の日課は、イエス様が十字架にかかられる前に弟子たちと一緒に食事をされた最後の晩餐の時に語られた言葉です。それは「惜別の説教」とも呼ばれます。

イエス様はこれまで三回にわたって自分が十字架にかかって死ぬことを予告されました。しかし弟子たちはそれを現実のことと信じられませんでした。今日、「今、あなたがたには理解できない」と言われているとおりです。弟子たちはイエス様が十字架にかかって死ぬことを本当に起こることとは信じられず、ましてやその十字架が救いの出来事であることなど理解できなかったのです。それを理解させるために、イエス様は「真理の霊が来る」そして「真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」と言われるのです。この真理こそが神の愛であり、その成就としての十字架の出来事なのです。聖霊はこの真理を「告げる」働きをします。弟子たちは告げられなければ真理を悟ることはできません。私たちもイエス様のみ言葉を告げられなければ信仰の道に入ることはできません。この告げる働きをするのが聖霊なのです。このみ言葉によって私たちは、救われ、変えられるのです。