2019年6月9日 説教要旨 松岡俊一郎牧師

力を与えられて

創世記 11: 1 – 11
使徒言行録 2: 1 – 21

今日は聖霊降臨祭です。イエス様を天に仰いだ後、集まっていた弟子たちの上に聖霊が降り注ぎ、彼らが雄雄しく宣教に出て行き、それをきっかけに教会ができていくという衝撃的で、教会にとっては大切な出来事を記念する日です。

創世記のはじめ、天地が神様によって創造されたとき、神様は霊に命じて天地を創造されました。また人間を創造されたときには、土の塵で人の形を造り、そこに命の息を吹き入れられました。そしてそれらは全地に広がり、人々もまた「生めよ、増えよ、地に満ちよ」命じられました。神様は霊を吹き入れられ、命を与え、全世界に広がるように散らされたのです。霊が吹き込まれ、散らされる、地に満ちることは神様のみこころであり、祝福であったのです。

今日の旧約聖書の日課の「バベルの塔」の話によると、世界の人々は同じ言葉を使って、同じように話していたのに、「天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして全地に散らされることのないようにしよう」と企てるのです。創造の神様から世界に広がるように命じられていた人間は、散らされることのないように企てるのです。これに対して神様は、「我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられるようにしてしまおう」と彼らを散らされたのです。人の罪に基づく結集と神様の裁きとしての離散でした。神様のみ心と離れたところでの結束、それは傲慢に基づく、やがては分裂と破壊を招くものだったのです。

弟子たちは一つのところに集まって祈っていました。復活の主が送ると約束された弁護者、聖霊を待ち望むために集まっていたのです。そこに聖霊降臨が起こりました。そして、人々は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、他の国々の言葉で話し出したのです。宣教の始まりです。ここにも結集と分散があります。それはイエス様が命じられた聖霊を待ち望む祈りのための集まりであり、主イエスの復活を世界に宣べ伝えるための拡がりです。

このように神様は集められ、散らされるのです。しかし、神様のみこころによる結集は祝福の分散となり、人の罪による結集は裁きとしての離散となるのです。聖霊降臨が起こった結集は、聖霊を待ち望む祈りのためでした。それは神様のみこころによる結集です。そして神様に信頼し、力を求めるのです。聖霊降臨によって、聖霊を吹き入れられ、命を与えられた弟子たちは、今度は散らされます。そしてこの散らしは、神様の確かな意志をもった派遣となって全世界に広がっていくのです。

教会が神様の霊を求める祈りの集団となるとき、そこではみ言葉が語られ、聖霊の導きによって聞き取られます。そこには聖霊が吹き入れられるのです。そして聖霊を吹き入れられた私たちは、み言葉を携えてそれぞれの生活に散らされていくのです。それは証しと伝道への派遣です。