2019年5月12日 説教要旨 松岡俊一郎牧師

神の声を聞き分ける

ヨハネによる福音書 10: 22 – 30

「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」ユダヤ人たちがイエス様を取り囲んで詰め寄りました。もしここで、イエス様が「そうです。私がメシアです。救い主です。」とお答えになったら、彼らはどうしたでしょうか。彼らはイエス様を信じたでしょうか。きっと信じなかったに違いありません。彼らは何度も知る機会があったのです。しかし彼らを信じませんでした。

理解しようとしない、信じようとしない人には、どんなに丁寧に話をしたところで通じません。はじめから聞く耳を持たないからです。福音書に記されている出来事が起こったのは、神殿奉献記念祭のときでした。この祭りは「ハヌカ」と呼ばれ、12月頃に行われる祭のときでした。わざわざヨハネ福音書の記者が、羊飼いと羊のたとえの話の途中に、それをさえぎってまでその時を告げているのは、意味を込めてのことでした。紀元前2世紀頃のイスラエルはシリアのセレウコス朝の支配下にありました。アンティオコス4世エピファネスは、支配している国々のヘレニズム化をもくろみ、イスラエルのユダヤ人たちにも、ユダヤ教を禁じ、安息日と祭日、聖所を汚すことを命じ、また偶像を祀る神殿を作らせ、豚肉を犠牲として捧げることを強要しました。さらに男の子に割礼を施すことも禁じ、エルサレムの神殿にはオリンポスの巨大な像を置いたのです。そこで紀元前174年に祭司マタテヤとその5人の息子を中心に反乱が起こり、エルサレムの神殿を奪還することに成功したのです。有名な「マカバイの反乱」です。これを記念した祭が、このハヌカの祭でした。つまりこの神殿奉献記念祭は、政治的な色合いが濃いだけではく、ユダヤ人にとっては信仰を守り通したという民族の誇りとなる祭りでもあったのです。その最中に、それも神殿の中で、自分たちに信仰がないと言われたのですから、イエス様の言葉はユダヤ人たちの逆鱗に触れたのです。ユダヤ人たちは石を取り上げ、イエス様を打ち殺そうとまでしたのです。

イエス様の羊は、イエス様の声を聞き分けると言われます。それは羊たちが聞こうとしているからです。イエス様の声も聞こうとしない人には聞こえないのです。羊飼いを信頼しているから羊はついていくのです。イエス様を信頼しない人はついていかないのです。イエス様が私たちを選別されているのではないのです。イエス様は「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない」と言われています。イエス様はわたしたちを捜し求めておられるのです。しかし、私たちが、他のことに気を取られたり、従うことを躊躇ったりしているのです。私たちは自分の決断や生き方や生活の仕方に自信がありませんから、私たちはイエス様の言葉を「信じない者は、わたしの羊ではない」と、裁かれているように聞いてしまうのです。しかし、イエス様の基本姿勢は、私たちを招いておられます。それも生半可な招きではなく、どこまでも、どこまでも探し続けられ、どんなことをしても受け入れようとされるのです。そしてそれはついには十字架の死をもって果たされたのです。

私たちは神様から選別されたと思う必要はありません。イエス様にふさわしくないと思う必要もありません。いや、ひょっとしたら、私自身が、私には必要がない、今はその時ではないと思っているのかもしれません。躊躇う理由はいろいろあると思います。しかし、イエス様はいつも私たちに声をかけておられます。私たちは聖書を通して、讃美歌を通して、聖書を通して、祈りを通して、友人たちの語りかけを通してその声を知ることが出来ます。その声を聞きたいと思います。聞いて従いたいと思うのです。永遠の命が与えられることが約束されているからです。