2019年4月21日 説教要旨 松岡俊一郎牧師

喜ばしい驚き

ヨハネによる福音書 20: 1 – 18

福音書の日課には、復活をめぐる二つの記録があります。これらの二つの復活の証言を聞いて私が感じることは、復活とは人の側にとっては不確かなことだという事です。イエス様といちばん身近に接していた弟子たちが、復活についてあたかも恐る恐る触れているのです。それは当然のことかもしれません。死でさえも人にとっては触れにくいものであるのに、復活というありえないことが弟子たちの身近に起こったのです。堂々と証言できるはずはないのです。この後いくつかの復活証言がありますが、そこにはいつも信じられない弟子たちの姿が添えられるのです。

私たちの常識でも、死んだ人が生き返ることはありません。これは私たちの絶対です。しかし、神様は人の絶対を覆されます。人の命が有限であるように、人の絶対は閉ざされています。しかし神様の絶対は永遠へと開かれています。人の絶対を信じることから、神様の絶対を信じることに転換すること、それが信仰であり、キリストのいのちをいただくことです。

神様は御子イエス・キリストを十字架にかけることよって私たちの罪をゆるし、復活させることによって永遠のいのちを与えてくださいました。それは死なないいのちではなく、神様と深く結ばれる関係です。人は神様との愛の関係の中で命を与えられました。しかし、罪によってその関係は破れたのです。

しかし、神様はその破れをそのまま放置されません。この関係の破れの回復、そのために神様は、ご自分の独り子イエス・キリストを十字架にかけるという予想もしない仕方で私たちの罪をゆるして、その責任を神様が負ってくださるのです。その責任の負い方、人の罪をゆるすために、ご自分の独り子を十字架にかけるということは、私たちの理解を超えていますが、私たちの神様に対する罪は、そのような方法でしか解決できないほど深かったのです。そして同時に、神様の私たちを愛する気持ちは、それほどまでに深かったのです。

十字架によって死なれたイエス様は、三日目に復活されたのです。それは神様の絶対の表れです。この神様の絶対に信頼すること、そのことによって私たちもまた、死を絶対のものと恐れる必要がなく、永遠への歩みをゆるされるのです。その中心は、神様が人を愛された愛に生きることです。その愛を持って互いに愛し合うことです。そのような生き方こそが、神様との関係に生きることであり、人に最大の幸せをもたらすのです。

使徒パウロは言います。キリストが私たちの罪のために死んだこと、葬られたこと、三日目に復活したこと、そしてその復活のみ姿を弟子たちにあらわされたこと、この真実を伝えることが、聖書が大切に考えていることです。そして私たちの教会もこのために存在します。婦人たちがキリストの復活を喜びと共に他の弟子たちに伝えたように、私たちもこの福音を喜びを持って伝え続けたいと思います。