2019年3月10日 説教要旨 松岡俊一郎牧師

試みを乗り越える

ルカによる福音書 4: 1 – 13

イエス様が荒れ野で40日の間食事を取らず、空腹になられた後、悪魔から誘惑にあわれた出来事です。40日間荒れ野にとどまって悪魔の誘惑にあわれているのです。悪魔の誘惑の一番の狙いは、人を神様から引き離すことです。そして悪魔の誘いは、それとすぐ分かるような仕方ではやってきません。むしろもっともらしく、魅力的で、時に合理的に、時に説得力を持って積極的な考えのように迫ってくるのです。最初の誘惑である「石をパンに変えてみなさい」という言葉も、空腹のイエス様に対するむしろ空腹を満たすための良い解決策としての声かけなのです。しかしイエス様の力はご自分のためではなく人の救いのために用いられるのです。そしてそれを申命記の言葉「人はパンだけで生きるものではない」を用いて、神さまのみことばが何よりも大事でありすべての事柄の中心であるということを教えられるのです。第二の誘惑では悪魔はイエス様を高い所に引き上げ一瞬のうちに世界のすべての国々を見せます。権力と繁栄が悪魔の手に任されているということは、とても意味深なことですが、悪魔はそのためには「わたしを拝みなさい」という条件を付けるのです。このような誘いに対してもイエス様は「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と退けられました。人は絶対的な力を持つ必要はありません。いたずらにそれを求める心は、自分が神となろうとしていることにほかなりません。そしてそれこそが悪魔を主と拝むことなのです。第三の誘惑として、悪魔はイエス様を神殿の屋根の端に立たせます。そしてイエス様がみ言葉を用いて反論されるのを逆手にとって試みるのです。これは神さまの力を証明することへの誘いです。不思議な力をしてみせるということは、神さまの力を知らしめるためには有効です。しかし、神様ご自身はそれを必要とされません。むしろそれは神様に信頼せず、試すことに他ならないのです。

それでは、悪魔はどんなときにその誘いの言葉をかけてくるのでしょうか。肉体的にも精神的にも満ち足りているときには、悪魔の誘いがあったとしても、それをはねのけるだけの力があります。しかしそのような力がないところ。そこに悪魔はつけ入ってくるのです。

イスラエルの民にとって出エジプトの荒れ野40年は誘惑にあいっぱなしの40年であったように思うのです。荒れ野を旅しているときも、一つの場所にとどまって暮らしているときも、いつも神さまの命令に背き、自分たちの思いを優先させようとしているのです。わたしは悪魔の誘惑とは、このような日常の中に潜んでいるように思います。精神的に疲れている時、病気などで肉体的に弱っている時、わたしたちは神様にすがりながらも、不安や不幸を嘆くことがあります。み言葉に聞くのではなく、他の方法で解決しようとしたりします。生活の具体的な問題が起こった時には、祈ることを忘れ、自分自身の思いに自分で振り回されてしまうのではないでしょうか。生活が満たされている時もまた、自分たちの生活を守ろうと神様の教えや導きに目をつぶろうとすることはないでしょうか。悪魔はわたしたちに日常の中に、そして積極的で合理的な姿を取って近づいてきます。

それでは私たちは誘惑にあいそうになった時、どのようにしたらいいのでしょうか。悪魔は私たちの弱さを知り尽くしていますから、わたしたちが素手で立ち向かおうとしても、さまざまな方法、言葉、考えで上げ足を取ってきます。それに立ち向かうためには、みことばによって悪魔を退けられたイエス様のみことばにすがるしかありません。