2019年2月17日 説教要旨 松岡俊一郎牧師

ゆるしは自由をもたらす

ルカによる福音書 6: 37 – 49

今の時代はクレームとバッシングの時代です。批判的なことが起こるとインターネットや SNS でたちまち話題になり、非難の嵐「炎上」という事になり、謝罪に追い込まれます。また、以前は許されていたことが今は厳しく裁かれます。とくにハラスメントという事が強く言われるようになりました。ハラスメントとは力の差を背景に起こる、言葉や行為で相手を傷つけることです。上下関係の中で起こるパワーハラスメント、男女間あるいは同性間の中でも起こるセクシャルハラスメント、普通の人間関係の中でも起きる嫌がらせによるモラルハラスメント、学校の先生と学生、生徒の間で起きるアカデミックハラスメント、ありとあらゆる分野でハラスメントが取り上げられます。こちら側にその意図がなくても、相手が不快に感じ、傷ついたらハラスメントが成立しますので、対応が難しいものです。

さて、今日の福音書は、「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。」とあります。この文章をそのまま読むと、裁かれないようにするためにまるで自己保身的な処世訓を述べているかのようです。しかし、イエス様の言葉の主眼はもちろんそこにはありません。

私たちは他者に肯定的な気持ちを抱くよりも、否定的、批判的な感情を多く抱きます。自分のことを棚に上げて、人の些細な欠点や問題点をあげつらうのです。人は神を神とせず、自分を神としようとする罪の中にあります。そこから生れ出る自我と欲望にまみれた存在です。それは人である以上避けられないものですし、その性質を背負いながらそれを良い方に生かしたいと努力しているつもりです。しかし、その性質は生易しいものではありません。少しでも人より得をしたい、前に出たい、人を蹴落としてでも上にのし上がりたいと鵜の目鷹の目で機会を狙っているのです。それも無意識のうちにです。

さて、イエス様の自分の罪に目を向けるようにとの言葉は、神様に従う者の生き方として、自分の罪から目をそむけて歩むのではなく、むしろ自分の罪を見据え、深い悔い改めの内に歩むように求めておられます。悔い改めは、一時の反省ではなく、罪に主導権を渡していた生き方に決別することです。それは罪に支配されている私ひとりだけの力でなしえることではありません。神様の力をいただかなければなりませんし、他者の祈りを必要とすることです。神様の愛と隣人の祈りによって初めてわたしの罪は赦されるのです。

人は裁きの厳しい視線の中だけで生きることには耐えられません。親子関係の中でも、兄弟の間でも、友人やその他の人間関係の中でも、本当に生きることが出来るのは、愛の関係の中だけです。先週の日課にもあるように、ゆるしが先行する時にこそ、人の心は愛に満たされ自由になるのです。厳しさや裁きではなく、赦しと愛こそが人を癒し自由にするのです。今の時代はその赦しと愛を失った時代です。しかしだからこそイエス様の十字架の赦しと愛が必要な時代ともいえます。イエス様は十字架上で一緒にはりつけにされた罪人を赦しパラダイスに招かれ、裏切り悲しむ弟子たちに赦しと愛を与えられました。そして今、私たちにも赦しと愛を与えてくださるのです。

イエス様は十字架によってその愛を示し、愛のまなざしを今も絶え間なく私たちに注ぎ、私たちが自分も他者もそのまなざしの中で生きていることに気づき、互いに愛をもって支え合うように求めておられるのです。