沖に漕ぎだそう
ルカによる福音書 5: 1 – 11
今日の福音書の最初の場面は、ガリラヤ湖畔におられたイエス様のもとに、大勢の群衆が押し寄せてきたことから始まります。群衆はイエス様の評判を聞きつけて来たのです。そこでイエス様は、そこにいた二艘の漁師の舟の一艘に乗り、少しだけ岸から漕ぎ出すように願われます。その方が群衆の中でもみくちゃになりながら話をするより、話しやすかったからです。その漁師はシモンでした。当然そこには兄弟アンデレもいました。さらにもう一艘にはゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネもいました。しかしルカによる福音書の強調点は、そこにはありませんでした。その後です。
イエス様はシモンに「沖へ漕ぎ出して網をおろし、漁をしなさい」と言われます。シモンが言うように、彼らが網を洗っていたのは、夜通し漁をして、その片付けをしていたのです。そして、彼らは何も取れなかったのです。しかし、シモンは「しかし、お言葉ですから網をおろしてみましょう」と言って網をおろすのです。この何気ない行動によって大逆転が起きます。
この出来事の中では、シモンの「お言葉ですから」という言葉が重要です。この言葉には、自分の経験や考えをわきに置いて、イエス様の言葉に従ったからです。人は自分の考えに固執します。いったんこうだと決めると、それを変えることはなかなかできません。その意志の強さ、頑固さは、個人差はあっても、人は自分の気持ちにこだわるのです。自分の考えをいったん置いて、人の言葉に従うのはたやすいことではありません。まして漁はシモン・ペトロたちにとって生業です。これまで自分たちは毎日その生活を続けてきたし、これからもその生活を続けるのです。そこには人の意見など付け入るスキがなかったかもしれません。しかしシモン・ペトロは「お言葉ですから」といってイエス様の言葉に従うのです。このペトロの行動は、この時彼にとっては思いつめたものではなく軽い気持ちだったと思います。それは後で、彼が「わたしは罪深い者なのです」と告白していることからもわかります。それはイエス様の力を信じて従ったのではなかったから懺悔しているのです。しかしこの何気なく従った一つの出来事が、ペトロの人生を大きく変えるのです。
イエス様はシモンに「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」と言われます。「人を捕らえて生かす者」と訳される言葉です。これがこれからのシモンに託された使命であり、人生です。舟を陸に上げる、漁具を捨てる、それはこれまで彼らが生業としていたものを捨てて、全く新しい人生を歩みだしたことを示します。
ルカ福音書は弟子の召命を記録することによって、イエス様との出会いは、人の人生にこのような変化をもたらすことを伝えたかったのではないでしょうか。弟子たちに迷いはなかったか?不安はなかったか?きっとあったでしょう。変化に不安はつきものです。旧約聖書の日課はエレミヤの召命の時もエレミヤは躊躇いを言葉にしています。しかし弟子たちは、イエス様の言葉に従ったのです。
イエス様も弟子たちを招くにあたり、彼らの中にそれにふさわしいものが備わっていたから招かれたのではありません。学問もない、信仰さえ不確か、これまで培ってきたものは不必要です。これは使徒パウロも同じです。パウロはキリストのゆえにそれまでの知識や考え、経歴をむしろ損失と思うほどに捨ててしまうのです。イエス様に従う時に、人が持っている力や能力、経歴など意味を持ちません。むしろそれらは邪魔になることがあります。そこに頼ろうとするからです。必要なことはみ言葉への信仰だけです。それもそれらも最初から備わっていることが条件ではないのです。大事なのはイエス様の召しとそれに応える信仰だけです。