2019年1月13日 説教要旨 鈴木連三氏(信徒)

キリストの洗礼・私たちの洗礼

ルカによる福音書  3: 15 – 22


先のクリスマスに洗礼を受けた方々に限らず、洗礼を受けるまでには誰もが様々な出会い・気づき・学びを重ね洗礼を受ける日を迎えます。長い備えを経て受ける洗礼、これはゴールように見えますが実はスタートなのです。

洗礼はある面では結婚と似ています。誰もが様々な形の出会い、相手をよく知るための期間を経て結婚に至ります。でも、大切なのは結婚によって始まる新しい生活です。結婚すればすべてがバラ色になるとは限りません。いくつもの困難、ぶつかり合うことも何度となくあるでしょう。でも、それらを乗り越えた先に、二人は新しい生き方、新しい存在意義を見出せるのです。

洗礼も同じです。神様の導きによって各々の道を通った末、私たちはクリスチャンになりますが、その瞬間にすべての悩みが解決されるわけではありません。それでも洗礼によって神様と共に歩き始めた私たちは、神様が私のことを愛してくださっていることを知っています。ですから、すべてのものの中に自分が生かされていることの意義を見出すことができます。

イエス様がヨルダン川で受けた洗礼にはポイントが二つあります。一つ目はイエス様が洗礼を受けた時、聖霊が鳩のように降って来て、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が天から聞こえたことです。この言葉は王の任命の言葉で、イエス様が文字通り神の子として『顕現』されたことを示します。二つ目は、罪びとではない神の子が、罪の許しの洗礼を受けたことです。『インマヌエル(=神は我々と共におられる)』と呼ばれたキリストはクリスマスの夜、馬小屋に人間の赤ん坊としてお生まれになりました。今日、罪に悩み、洗礼を受ける人々の中にイエス様が身を置いています。イエス・キリストの洗礼、それは顕現された神の子が私たちと共にいて連帯して下さることを示しています。

私たちは聖霊によってキリストの洗礼を受けました。この洗礼はただの洗い清めではなく、私たちを神様と結び付け、神様の子とし、神様の命に預からせます。それは神様が私たちのところに降りてきてくださったからこそできるのです。この恵みをそのまま信じ、感謝して受け入れることが私たちの洗礼です。