2019年1月6日 説教要旨 松岡俊一郎牧師

マタイによる福音書 2: 1 – 12

「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く。」イザヤの預言です。イザヤがこのように語ったとき、すでにそのように主の栄光が現われていたわけではありません。イザヤが続いて語るように、現実は「見よ、闇が地を覆い、暗黒が国々を包んでいる」のです。目の前には苦しく悲惨な現実しかないところで、預言者は主の救いを見ているのです。救い主とその救いを求めるということは、現実を見据えつつも、その向こうにある神様の救いを見出し、それを捉えようと求め続けることです。それは希望を持ち続けることでもあります。どんなに厳しい現実があろうとも、希望のないところには生きる力もわいてきません。希望を持ち続けることが力になるのです。

今日は顕現日です。東方の占星術の博士たちが、救い主の誕生を告げる星の導きによって赤ちゃんイエスのところに導かれ、礼拝し、贈り物をささげたことを覚える日であり、救い主の到来と栄光が外国人にも示された日でもあります。

本来、神様の救いはイスラエルに与えられると約束されたものでした。しかし、人々はその預言を知っていながらも、目の前の暮らしと社会の安定を求めて、神様の救いを求めようとはしませんでした。博士たちは異国の古い言い伝え、文献を頼りに、星を観察し、救い主の誕生の兆候を待ち続けました。そしてそれを発見するとすぐに旅支度をし、その場所を突き止めようとしたのです。本来、救い主を待ち続けていたはずのユダヤ人たちは目の前の生活に安穏とし、そこにしがみつき、救い主の誕生を告げる知らせを厄介な出来事としか受け止めることが出来なかったのです。救いの預言に誠実でなかったのです。

確かにイエス様のお誕生とそのご生涯は存在します。十字架の出来事も神様の救いの出来事として起こりました。私たちはそのことを知っています。しかし、大切なことはそれを私のための出来事として受け止める信仰です。この信仰があるところでは、預言者が語ったまだ見ぬ救いを今、自分に起こったこととして受け止めることができるのです。ユダヤ人たちはそれができませんでした。すでに預言によって救いが語られていても心の目がそれを閉ざしていたのです。しかし信仰はまだ見えない救いを、今の出来事として感じることです。

博士たちは星を見ながら救い主の誕生の知らせを待っていました。そして星の導きに従って救い主と出会うことが出来ました。私たちには星の代わりにみ言葉が与えられています。み言葉が救い主の誕生を知らせ、誕生だけでなく十字架の死と復活によってその救いが完成したことを知らせています。このみ言葉に聞いていくこと、それが、私たちが救い主と出会う方法であり、救いを自分のものとする手立てです。新しい年も聖書を手掛かりとして、聖霊の導きにより、救いを今の私の出来事として受け止めて歩んでいきたいと思います。