2018年12月30日 説教要旨 鈴木亮二氏 (信徒)

慰めを待つ

ルカによる福音書 2: 25 – 40

何かを待つとき、その時間が決まっていて、待つ時間も短いときはワクワクしながら待つことができます。しかし、長い時間待たなければいけないようなときは、あとどれくらい待てば良いのかがわかるようにならないとワクワクしてきませんし、いくら待っても、いつになったら待った結果が見えてくるのかがわからないときは、待つのが嫌になってしまいます。

今日の福音書には、シメオンとアンナという二人の待つ人が書かれています。シメオンはイスラエルが慰められるのを待ち望み、アンナはエルサレムの救いを待ち望んでいました。当時のユダヤはローマ帝国によって征服され、シリア属州の一部になっていました。多くの人たちは、シメオンやアンナのようにユダヤがローマ帝国から解放されることを望んでいました。そんなシメオンとアンナは、両親と一緒に神殿に来たイエス様に出会います。

シメオンとアンナがイエス様と出会うことができたのは、偶然ではなく神様の導きによるという説教もあります。しかし、霊が「神殿に行きなさい」と命じたからシメオンはたまたま神殿に行ったのではなく、彼らは毎日のように神殿に行っていたのではないかと思います。神様の導きだけではなく、シメオンもアンナも自分たちは必ず救い主に会うことができるという信仰が、イエス様と会うところに導いてくれたように思います。ですからシメオンはイエス様に会えたとき、うれしさのあまり思わずイエス様を抱き上げ神をたたえ、アンナはイエス様に近づいて神を賛美したのです。聖書には、待ち続ける姿が描かれている部分が多いですが、一番長く待ち続けていることが書かれているのは神様です。放蕩息子のたとえの父親は、神様のこととしてたとえられています。たとえ私たちが神様のもとから離れていってしまったとしても、神様は私たちが神様のもとに帰ってくることを毎日見守り続けてくださっているのです。

 イエス様を抱き上げたシメオンは、神をたたえて言います。シメオンの賛歌と呼ばれるこの文章は、ヌンク・ディミティスとして礼拝の派遣の部で歌われます。この中で「僕を安らかに去らせてくださいます」は、「イエス様に会うことができたので、これで思い残すことはなく安らかに自分は世を去ることができる」ということではなく、「礼拝の場から日常の生活の中に派遣される」ということです。慰めや救いを待ち続けてきた私たちに、神様は救い主としてイエス様をこの世に与えてくださいました。礼拝の中で神様をたたえ、聖書のみことばによって力を与えられた私たちは、安らかな気持ちを持って日常の世界に派遣されます。そして私たちは、神様をたたえ、慰めを望む人たちにイエス様を伝えていくことができるのです。