2018年12月23日 説教要旨 松岡俊一郎牧師

神の言葉を信じる幸せ

ルカによる福音書 1: 39 – 45

クリスマス物語の中に、多くの人々が希望と平安を見出してきました。一方でクリスマスの出来事は不思議で満ちています。不思議で満ちているということはそこには疑いがあふれていると言えます。つまりクリスマス物語は信仰を要求するのです。

さて、今日の日曜日を私たちは降誕主日として守っていますが、この礼拝では待降節第四主日の聖書日課を用いました。福音書の日課は、天使ガブリエルによって妊娠していることを伝えられたマリアが、親戚のエリサベトを訪ねた時のことが記されています。エリサベトは子どもがないままで高齢を迎えました。すでに妊娠できる年齢を過ぎていましたが、聖霊の働きによって身ごもっていたのです。当時女性は子どもを生むことが神様に祝福されていることの証しでしたから、エリサベトはこれまでずいぶんと肩身の狭い思いをしてきたことでしょう。しかし高齢で身ごもることは、疑いと嘲笑の的でもありました。子どもができてもできなくても彼女は辛い境遇であったと思うのです。

マリアはどうかいうと、エリサベトとは反対に、まだ若く、ヨセフという婚約者はいたものの、まだそのような関係にならないうちに妊娠していることが知らされるのです。マリアは身に覚えのないことに驚いただけではありません。当時は今日のように性に対して寛容な時代ではありませんでしたし、婚約が大きな意味を持っていましたから、もしマリアが婚約していながら妊娠したことが人に知られると、姦淫の罪を犯したとして律法に基づいて石うちの刑罰に処せられてしまうのです。マリアもまた自分の身に起きたことを誰にも相談することが出来ず、孤独と不安の内にあったのです。しかし、親戚のエリザベトも聖霊の働きによって妊娠するという自分と同じような境遇にあることを知って、急いでエリザベツの住む山里に向かいました。マリアがエリサベトに会い、挨拶をすると、エリサベトのお腹の子がおどりました。そしてエリサベトはマリアを祝福するのです。
この二人の女性に共通する点は、神様の不思議なみ業によって起こるはずのないことが起こったということです。一般社会の視点から見るならば、それは非常識、あるいは不道徳なことが二人の女性の上に起こり、彼女たちには冷たく厳しい視線が投げかけられた出来事であったのです。その意味で二人の女性は世間から孤立した辛い立場にあったと言えるのです。しかし二人はそのままで終わりませんでした。二人の間には、神様の約束と祝福そしてそれを信じる信仰がありました。

私たちにも予期しない出来事が起こります。病気やケガ、家族の死、嫁や舅姑との問題、介護の問題、リストラ、交通事故、離婚など、それは時には受け止めきれないような出来事です。私たちは苦悩します。胸が張り裂け、メンタルを壊すこともあります。しかしその苦しみはどこにもぶつけられず、受け止めるしかないのです。しかし、福音書の出来事は、それが私と神様の間に起こった出来事として受け取る可能性を伝えています。もしそうならばそれは私たちにとっても見方が変わるのではないでしょうか。この私を神様の出来事の相手、神様の出来事の起こる場所として選んでくださったのです。普通ではそんな発想の転換、気持ちの切り替えはできません。しかしそこは信仰の出来事、信仰はそれを起こすのです。確かに苦悩と辛さはそう簡単にはなくなりません。しかし私に対する見方、出来事に対する見方が変わり、受け止め方も変わってくるのです。そこから希望の光が見えてくるのです。希望を持つとそれまでとは違う歩み方になります。