2018年12月16日 説教要旨 松岡俊一郎牧師

神様の考えに従う

ルカによる福音書 1: 26 – 38

私達の人生にもどんなことが待ち構えているか前もってはわかりません。前もって予想できるならばそれに対して心構えもできますから、大きな不安にはなりません。むしろ予想しなかったようなことが起こり、予想しなかったような結果をもたらすから大変なのです。そこで重要なことは、その境遇の変化や結果をどう受け止めるかです。身に起こったことを大変なことになったと恐れ、人生を踏み外してしまったと受け止めて落ち込んでしまうか。それとも「これもまた人生」と正面から受け止めて歩みだすか大きな違いがあります。

天使ガブリエルはマリアに懐妊をつたえます。天使がどんな姿でマリアの前に現れたかは不明ですが、一人の若い娘にすぎなかったマリアに突然起こった出来事です。マリアを襲ったのは恐れと不安でした。彼女は婚約していたとはいえ、15、6歳の娘です。自分の身に何が起ころうとしているのか予想もつかなかったのです。マリアの恐れには理由がありました。彼女は婚約してはいたものの正式な結婚はまだでした。当時の結婚は父親が主導権を持って決めるものでしたから、その縁談話が進んでいたとしても、今のような自由な時代ではありませんでしたから、妊娠など考えも及ばなかったのです。マリアは正直にこのような苦悩を天使に打ち明けます。「どうして、そのようなことがあり得ましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」マリアの不安はそれだけではありません。天使が伝えた、その子どもが偉大な人になり、いと高き方の子と呼ばれるということも彼女にとっては驚きであったに違いないのです。マリアに妊娠が伝えられるということは、このように何重にも苦悩と問題を引き起こすことだったのです。
しかし、それが神の働きであることが伝えられます。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。」ここに大きな分岐点があります。天使の語る言葉を依然として恐れと疑いをもって聞くか。それとも神の業として信仰によって受け入れるか。この分岐は、不安と苦悩に続く道か、それとも平安と希望への道であるのかの大きな分かれ目です。人は自分で負いきれないようなことは否定しがちです。しかし信仰によって決断する者は、たとえ自分では負いきれないと分かっていても、そこに神様の意志と選びを感じ、すべてを委ねて決断するのです。

マリアは神様の意思を受け入れたのです。もはや不安と苦悩ではなく、平安と希望がマリアを待っているのです。もちろん全くの不安がなくなったわけではないでしょう。しかし、自分に起こることは、神様の御心と信じた者にとって、たとえ試練があったとしても、そこには同時に神様の助けが与えられることは間違いのないことです。マリアはそこに信頼したのです。

私達にも人生の岐路が存在します。自分では想像だにしなかったことが起こります。そして、その選択においても悩みますが、その結果についても思い悩みます。自分の身の上に起こることをどうとらえるかは、その後の歩みの取りつきに影響します。自分の人生や生活を失敗と捉えるか、それともそのような挫折を味わったとしてもそこになにがしかの神様の御心を見ていくか、その違いは自分の存在と人生の意義に大きく影響を与えます。

私達は神様のみ業の器です。この器の中にどのような物が盛られるか、私たち自身では決めることができません。しかし神様はその器の大きさ、形、素材を熟知しておられますから、きっと良い盛り付けをして下さいます。私達もそれを信じて喜んで御心を受け入れたいと思います。