2018年11月18日 説教要旨 松岡俊一郎牧師

ささげる姿

マルコによる福音書 12: 41 – 44

学生の頃、友人たちとよくボランティア活動は偽善ではないかということで議論になりました。決してボランティアをしていることを人に誇ったりはしていなかったのですが、それは議論好きな学生です。喧々諤々議論しました。東日本大震災が起こった時、すぐにボランティアに行こうと思い立ちました。その時頭によぎったのがこの行為が偽善かどうかという事でした。しかしこの時に思ったことは「偽善で結構」「むしろ偽善だ、しかしそれでも行く。」という事でした。必要とされるならば喜んで応えるという思いだけでした。いろいろ人生経験していくとそういう開き直りができるようになるものだとあらためて思いました。

さて今日の福音書の日課の前には、イエス様が律法学者を非難される言葉が書かれています。律法学者は長い衣をまとって偉そうに歩きまわり、広場では人々から挨拶されることを喜び、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、寡婦の家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。大変厳しい非難です。当時のユダヤ社会は律法中心の社会でしたから、その知識にたけていた律法学者たちは多いに権勢を誇っていたのです。そして人々の信頼と尊敬は、やがて彼らを傲慢にし、信仰も虚飾にまみれたものになっていたのです。すべての人がそうであったとは思えませんが、当時の律法学者の姿を如実に表しています。イエス様はこのような偽善的な姿に大変な嫌悪感を持っておられたと思われます。

イエス様は、神殿の前のさい銭箱の反対側に座って大勢の人が献金を投げいれる様子を見ておられます。そこでは特にお金持ちの人はたくさん入れていました。このさい銭箱は神殿の維持管理のためにおかれていました。当時の感覚から言えば、献金は多くした者が評価されていたと思われますから、たくさん献金をする人は自慢げに投げいれ、まわりもそれに感嘆の声を上げていたのかもしれません。しかしそこに一人の貧しいやもめが来て、当時の最小貨幣であったレプトン銅貨二枚を入れたのです。レプトン銅貨というのは当時の最小貨幣です。壮大な建築物であった神殿の大きさを考えるならば、このやもめがささげた献金額は、あってもなくてもどうでもいいような額でした。しかしイエス様は額を問題にされませんでした。

ここで言われていることは、神様にどれだけ捧げるかではなく、何を捧げるか、どのような思いで捧げるかということです。

女性たちがすべてをささげたことに注目したいのです。それは額の多い少ないではありません。神に向かう心、神様に何をどのような心で捧げるかです。ここで言う「全部」は、私たちの命と存在そのものです。与えられた肉体、与えられた時間、与えられた財産、与えられた知識、与えられた仕事、与えられた関係、すべてを神様のものとすることです。それは終末論的と言えます。現実の生活をしながら、私たちが神様のもとに生きていることを、捧げるという行為を通して、信仰によって確認することです。これは額や量の多い少ないの次元を超えて、また律法学者や私たちが陥りやすい傲慢や偽善と決別し、神さまの命に生きることです。そしてさらに私たちが捧げるのは他の宗教に見られるような、神様を喜ばせる、慰めるためではありません。むしろひとり子を十字架にかけるほどに愛された神様の愛に応えるため、イエス・キリストの十字架の痛みへの感謝です。