2018年10月21日 説教要旨 松岡俊一郎牧師

神の国に入る難しさ

マルコによる福音書 10: 17 – 31

私たちの生活は物であふれています。「ミニマリスト」と呼ばれる人々がいます。普通の暮らしの中で、極限まで物を持たないで生活する人たちのことです。彼らの家は物がなく一見生活感がありません。しかしそれで十分だというのです。確かによく考えると必要な物はそう多くはありません。衣服にしても、靴にしても、鞄にしても使うものは決まってきます。この極限まで持ち物を少なくすると、物への執着がなくなるそうです。しかしそれはもっともだなと思うのですが、なかなかそれが出来ない。そのうちにますます物が増えていくのです。

さて聖書の時代の人々が一番求めていたことは、永遠の命を受け継ぐこと神の国に入ることでした。そのために彼らは律法を求め、律法を守っていたのです。ここにひとりの人が登場し、イエス様に尋ねます。「永遠の命を受け継ぐにはどうしたらいいでしょうか。」彼は律法を守ることがその道であることを知っていたはずです。知っていながらイエス様に尋ねたのは、イエス様を試すためではなく、律法を守りながらも、これで永遠の命を得られるだろうかというまじめな疑問にぶち当たっていたのではないでしょうか。イエス様はモーセの十戒のことばをあげられます。彼はもう少し違う答えを期待していたでしょう。するとイエス様は彼の予想を超えたことを言われます。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っているものを売り払い、貧しい人々に施しなさい。」そしてさらに言われます。「それから、わたしに従いなさい。」これを聞いて、彼は気を落とし、悲しみながら立ち去ります。たくさんの財産を持っている人はそこから離れられない、逃れられないということです。

それではなぜ金持ちは永遠の命を継ぐことが出来ないのか、神の国に入ることが出来ないのでしょうか。永遠の命も神の国も、人があるべき神様との正しい関係を言っています。その関係の中では、人は神様に向い、神様に従わなければなりません。しかし、人が財産を求め、財産を手にするときには、そこには全身全霊を持って神様に向っているとは言えません。何しろ財産を守ることに必死にならなければそれを失ってしまうからです。聖書はそのような人の姿、人の弱さ、人の本質を見抜いているのです。しかしそれはただ単純に権力者や金持ちに対する言葉ではありません。そうではなく、権力やお金や財産に執着する心に向けられていると言っていいでしょう。私たちは実際にそれらを持っていなくても、それに執着する心はあるからです。イエス様が「持ち物を売り払って貧しい人に施しなさい」と言われるのは、ただ人に施すということではなく、それらの執着から解放され、自由になりなさいと言われているのです。執着は心をとらえ、心を縛ります。人を満足させるどころかかえって不自由にします。しかし私たちはこの縛りから自由になることが出来ないのです。

イエス様は、「人間にはできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」と言われます。私たちが自分の力や努力で執着から逃れようとしても、それはできません。しかし、イエス様は、神様はその力を持っておられると言われます。神様のみ心は人々を拒むことではありません。イエス様が言われるように、神様は私たちをどこまでも招いておられるのです。その招きの力はどこまでも私たちを追い求めます。この招きを拒まないことです。「神様にはできる」、私たちを救うことはこの一点に頼ることです。