2018年9月23日 説教要旨 松岡俊一郎牧師

あなたにとって私は誰

マルコによる福音書 8: 27 – 38

フィリポ・カイサリアは、異教の神々やローマ皇帝を神として祭っていた場所です。そこでイエス様は弟子達に「人々は、私のことを何者だと言っているか」とお尋ねになりました。さらにイエス様は「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」とお尋ねになりました。いろいろな偶像が祭られていた場所です。この質問が一番大切で、弟子達の信仰の核心を突く質問でした。相手を誰というか、それは何と呼ばれているかを問うだけではなく、二人の関係を問う問いでした。ペテロにとってイエス様は誰か。それは相手を問う問いであると同時に、答えるペテロ自身を問う問いでもありました。イエス様の前で自分は何者か。その自分がイエス様をどのように受け止めているかが問われるのです。

この問いに対してペトロが「あなたは、メシアです」と答えました。マタイ福音書では「あなたはメシア、神の子です」と言い、ルカ福音書では「神からのメシアです」と答えています。これは無理解と勘違いに終始していた弟子達としては百点満点の答えでした。しかし、言葉としては百点だったのですが、ペトロは自分が言ったその言葉が持っている意味は理解していませんでした。理解していなかったというよりは、誤解していたのです。
イエス様は、ご自分がこの後、長老、祭司長、律法学者からに捕らえられ殺され、三日の後に復活することになっている、と受難の予告をされます。すると、ペトロはイエス様をいさめ始めます。イエス様を注意するのですから、ペトロはよっぽど思いつめたのでしょう。イエス様が捕らえられて殺されるなど、あってはならなかったのです。これに対して、イエス様は「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と叱責されます。ペトロが、救い主としての使命に生きようとされるイエス様を理解せず、自分のイメージでイエス様を捉え、そのイメージに縛りつけようとしていることへの叱責でした。

イエス様を誰というかの問い、そしてそれを答える私は何者かという問い。イエス様を信じるという時、信じる私が問われています。自分はどんな人間か、どんな生き方をしてきたか、またこれからどのように歩もうとしているか、神様の前に立つとき、様々な問いが自分に降りかかってくるのです。もちろんこの問いにすぐに答えられる人は少ないでしょう。振り返り、思い巡らし、葛藤し、落ち込み、迷いながら自分を発見するのです。そしてそこからイエス様との関係が導き出されるのです。そこからイエス様の十字架の真実が見えてくるのです。この自分を問うことなしには、十字架は見えてきません。十字架があなたのための十字架だからなおさらのこと自分を見つめる必要があるのです。立派な答えをしたペテロでしたが、まだそこには到達していませんでした。だからこそイエス様の十字架を否定しようとしたのです。

イエス様に従うとは、自分自身の生活にある重荷をしっかり荷なうことです。ここには初代教会の抱えていた厳しい宗教事情とキリスト者への励ましが込められています。しかし今の私たちにとっても、自分の生活の課題を負って行かなければならないことには変わりがありません。イエス様を信じればそれが簡単になくなってしまうとか、解決するとか、短絡的に考えることはできません。私たちの生活は依然として変わらず存在し、課題も残るのです。しかし、ただ一つ言えることは、その私たちの負うべき十字架をイエス様が究極のところで負ってくださっているということです。私たちがただ一人で負っているのではない。イエス様が共に負ってくださっているのです。