2018年9月9日 説教要旨 高塚郁男牧師

単純な信仰

マルコによる福音書 7: 24 – 30

  1. テキストの中から3つのことを学びます。第1は24節の「イエスはそこを立ち去って,ティルスの地方に行かれた」と言う状況移動の言葉から、“信仰は旅”であると言うこと。第2は25節に出てくるフェニキアの女が「イエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した」というなりふり構わず無心にイエスに憐れみを乞う“信仰の姿”のこと。そして、第3にテキストから私たちの“信仰”はどうあるべきかの3つです。
  2. 神は私たちの意見を聞き入れずに見知らぬ所に導き出します。神が「行きなさい」と命じ、それに従うのが信じる者の姿です。従うことによって大変な人生に遇いますが守られた生活をします。アブラハムの話が最も良く知られています。「主はアブラムに言われた。『あなたは生まれ故郷、父の家を離れ、私が示す地に行きなさい。』アブラムは、主の言葉に従って旅立ちます(創世記12:1~4)。示された地まで1500キロも離れています。1500キロというと北海道北端から九州南端以上の距離です。気の遠くなるような命令です。しかしアブラムは神の言葉を信じ未知の世界に旅立ちます。未知の世界へと進みますが主に守られながらの人生の旅です。
    24節には「イエスはそこを去って、ティルスの地方に行かれた」とあります。イエスの場合は未知の遠い旅とは言いませんが、毎日場所を移動し、人々と遇い、病気を癒され、奇跡を行い、説教し、教え続け、毎日転々と歩き廻ります。イエスもこの意味で旅の人でした。私たちもイエスが誰であるか探し求めながら旅を続けています。長い人は50年も70年も旅を続けている人もいるでしょうし、始めたばかりの人もいるでしょう。
  3. 「汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女がすぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した」(25節)。人は主イエス・キリストを真に受入れ神の子と信じ、イエスを目の当たりにすると、黙っていても自然にひれ伏し、足もとひざまずきます。これこそ、信仰の姿です。
  4. 私たちは何故聖書を読み、教会に来るのでしょうか。イエスが私にとってどういうお方かを確認するために聖書を読み、礼拝に来ます。何年かけてもイエス・キリストが自分にとって誰だかはっきりしないまま礼拝に来たり、祈祷会に出席する人もいます。短い間に、イエスは私にとって確固たる核心を持てる方もいます。テキストには単純な信仰を持った一人の婦人が登場しています。イエスはこの婦人を最後には褒めています。私たちも彼女のような単純な信仰を持てと言っているような気がします。単純なことは逆に強さを持っています。人が何と言おうが、大勢の人が見ていようが、そんなことには一向に構いません。主イエスが共にいて下さるのですから、何が起ころうがびくともしません。立派な信仰より単純な信仰を持つように今日もイエスは私の傍らにいて下さいます。