2018年8月26日 説教要旨 鈴木亮二氏 (信徒)

安心しなさい

マルコによる福音書 6: 45 – 52

イエス様の働き手として、五千人の人たちに食べものを配った弟子たちは疲れていたでしょう。イエス様はそんな弟子たちを舟に乗せ、向こう岸のベトサイダに行くよう命じました。五千人の給食の奇跡の最初の部分で、宣教の訓練から帰って来た弟子たちに「しばらく休むがよい」と言われていたので、ベトサイダに行って休みを取りなさいということだったのかもしれません。しかし夕方に出発した舟は、強い逆風のため夜明け近くになっても湖の真ん中でちっとも進めない状況でした。

舟に乗って逆風に苦しむというのは、私は洗足池のボートくらいでしか経験したことがありませんが、それでも大変なことでした。漕いでもちっとも進まない、疲れて漕ぐのをやめれば、風に流されてボート乗り場からどんどん遠ざかっていく。とにかく漕ぐしかないのです。弟子たちも必死で漕いでいたことでしょう。そんな弟子たちの前をイエス様は通り過ぎようとなさいます。

「通り過ぎる」とは、旧約聖書の中では神様が人の前に姿を現すときに使われる表現です。出エジプト記ではモーセの前を、列王記では預言者エリヤの前を通り過ぎる神様が書かれています。人は神様の姿を正面から見ることは決してできません。

イエス様は弟子たちの前を通り過ぎることによって、ご自分がどのような方であるのかを示そうとしました。ところが弟子たちは、通り過ぎるイエス様を幽霊と間違えて騒ぎ出します。逆風の中で苦しみ、大切なものが何も見えなくなってしまっていたのです。イエス様は弟子たちの前をそのまま通り過ぎませんでした。立ち止まって弟子たちに話しかけてくれるのです。「安心しなさい」と。旧約聖書の時代には、顔も見ることが許されなかった神様であるイエス様が、逆風で苦しんでいる舟に一緒に乗り込んでくださるのです。

私たちも、普段の生活の中で逆風の中に立たされることがあります。やらなければならないことがある、でも目の前には自分を押し戻そうとする大きな壁がある。そんなとき、私たちは自分のこと以外何も見えません。逆風の出口であるゴールが針の穴ほどにしか見えていないのです。イエス様のことも見えません。ですから、イエス様が目の前にいたとしても気がつくことができません。

イエス様が舟に乗り込むと、逆風は何ごともなかったようにおさまりました。何も見えず、自分のことしか考えられないとき、イエス様のことも思い浮かばないときでも、イエス様はみずから私たちの前で立ち止まり、語りかけてくださいます。

逆風で苦しんでいるとき、私たちの視野はどんどん狭くなってしまいます。でも少し目を上げてみれば、逆風で漕ぎ悩む舟に近づいてくるイエス様が見え、その言葉もはっきりと聞こえてくるのだと思います。