使命に生きる
マルコによる福音書 6: 6b – 13
弟子たちがイエス様によって選ばれたことが書かれているのは、今日の福音書の日課から数えて、わずか3章前の3章13節です。彼らは伝道のための訓練らしい訓練は何も受けていないように思われるのです。その意味ではあまりに早すぎる、無謀すぎるように思えます。
しかし、イエス様はそんな彼らを容赦なく宣教へと送り出される。むしろ周到な準備をして行けというのではなく、汚れた霊に対する権能だけを授け、「旅には杖一本の他には何も持たず、パンも袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして下着は二枚着てはならないと命じられた」のでした。
何も持たない、ただ杖だけは持っていいということは、自分の力を頼みとしないこと。自分たちの小手先の力に頼るのではなく、神様の力に信頼しつつ、与えられた務めを果たすようにということです。
こう考えると経験の浅い弟子たちに、何も持たせずに伝道の務めを託される意味がわかってきます。どんなにたくさんの知識や道具を身につけても、それは神様の力や働きの前では不十分なものでしかありません。私たちは何かを持っていると安心しますが、しかし持っていると必要以上にそこに頼ろうとします。創意工夫など生まれません。
しかし神様の働きは、神様ご自身の力が現れる場所であり、私達の生半可な知識や小手先の技などは力を持ちません。むしろ私たちが持とうとするものは、時として神様への信頼を忘れさせる結果をもたらします。しかし、何もなくても神様ご自身に信頼するならば、すべてが与えられ、満たされるのです。
わずかな備えしかするなということは、臆病で失敗を恐れる私たちには、大変厳しい命令です。しかしそれは同時に大きな慰めでもあるのです。私たちは何事にも十分な知識や技術を身に着けることを大事に考えますが、必ずしもそれが十分にできるかというとそうではありません。イエス様は、備えの大小を問題にされないのです。たとえ十分でないと思えるようなものでも、ご自分の働き人として用いられるのです。
福音書の日課を読み進めていくと、たとえ神様によって命じられた伝道の業であっても、必ず成功するとは限らないことを悟らされます。むしろ困難なことが多いことを知ります。弟子たちの言葉が受け入れられないときのことが語られているからです。今日の日課の直前では、イエス様は故郷のナザレで受け入れられなかったのです。
イエス様は、伝道の難しさを知っておられました。そこではむしろ自分で何かをしようとするのではなく、主にすべてをゆだねるように勧めておられます。
キリスト者はすべて伝道に導かれています。それはいわゆる伝道プログラムだけでなく、生き方や生活そのものがキリストを証しする生活なのです。それは重荷ではありますが、その重荷もキリストが背負ってくださるのです。こんな自分でもキリストの手足として用いられることの喜びを感じたいと思います。