2018年7月29日 説教要旨 松岡俊一郎牧師

二つの癒し

マルコによる福音書 5: 21 – 43

人が助けを求める時、具体的な内容を口にします。確かに目の前の苦しみから逃れたいのです。しかし、よくよく話を聞くと、それは表面的な場合があり、心の奥底にはもっと深刻な問題や願いが潜んでいる場合があります。その奥底に気づき、到達した時、表に出ている苦しみは自然に克服される場合があります。人に必要な救いは、その人自身の存在が受け止められることのように思います。

12年もの間出血の止まらない女性がやってきます。彼女は難病の人が誰でもそうするようにたくさんの医者を尋ね歩きます。病の苦しみだけではなく精神的にも傷つけられる毎日だったでしょう。ひょっとしたら、占いの類にも頼ったかもしれません。絶望的な状況です。もはや自分が生きている価値すら見いだせないなかで、最後の手段としてイエス様にすがるのです。彼女はまさに神にすがる思いで群衆の中にもぐりこみ、イエス様の服の裾に触るのです。すると彼女の出血は止まりました。

この時、イェス様は病気で死にそうなヤイロの娘のところに行こうとする途中でした。ヤイロにしてみれば、娘が危篤という絶望的な時なのに、イエス様は誰が自分の服に触れたかともたもたされています。ヤイロはどんな気持だったでしょうか。イエス様は娘がたとえ死んだとしても、父なる神によって生き返ることが出来ることを知っておられました。ですから、イエス様にとって手遅れはなかったのです。イエス様があまりにしつこく探し回られるので、女は恐ろしくなって名乗り出て、身の上をありのままに話し始めます。するとイエス様は「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心していきなさい。」と言われたのです。イエス様にとっては、この女性の神の憐れみを求めるこころ、信仰を受け止めることが何よりも大切だったのです。

そこに会堂長の家の人々がやって来て、「お嬢さんはなくなりました。」と娘が死んだことを報告します。ヤイロにとって一番恐れていたことが起こりました。絶望的な思いが絶望そのものに変わった瞬間でした。しかし、イエス様は「恐れることはない。ただ信じなさい」と言われます。そして子どものところに行き「タリタ、クム(少女よ、私はあなたに言う。起きなさい)」と声をかけられるのです。すると、少女はすぐに起き上がったのです。

この二つの出来事に共通することは、絶望的な中での信仰です。長血を患った女性にはもはやすがるものは何もありませんでした。ただイエス様の力を信じてその力によって癒してもらうだけでした。その癒しだけに希望が残されていたのです。ヤイロもまた娘が死ぬという絶望的な状態です。子どもの死ほど親を絶望に陥れるものはありません。死は人に絶対的な力をもって立ちはだかります。ヤイロにはもはや希望が残されていないのです。

絶望とは、周りはもちろん自分自身にも希望をおくことが出来ない状態です。人は希望を持つことが出来ない時には生きる力もないのです。自分にも人にも希望をおくことが出来ない時、残される道は神さまにのみ希望をおくことだけです。神様だけが人を絶望から救い出し、死から命に導かれるのです。

信じることは頼りないことです。信仰には確認するものがありません。悲しむ人、不安の中にある人、孤独な人、苦しむ人、目を上げることが出来ない人、神様はそれらの人に向かって憐れみを注がれ、イェス様はその人のために十字架の救いを成し遂げて下さったのです。神様の愛と憐れみが人に注がれ、それを信じた人には確かな力が与えられる、生きる希望が生まれるのです。人の目には不思議なことです。しかしそれが信仰の力なのです。