2018年7月8日 説教要旨 松岡俊一郎牧師

神様の赦しはすべてに及ぶ

マルコによる福音書3: 20 – 30

イエス様の身内の人たち、母マリアや兄弟姉妹たちは、イエス様を群衆から引き離そうとします。民衆はいつもイエス様のことを好意的に見ていたわけではありません。家族としては気が気ではなかったのでしょう。おまけにそこにはエルサレムから律法学者が来たとなると家族としては目立っちゃいけないと思ったに違いありません。

しかし、家族であるということで、イエス様を見誤って黙らせようとしたり、押し隠そうとしたりするのではなく、イエス様を神御自身の御心を実現されるお方としてみるべきでした。

律法学者たちは、イエス様が行われていた癒しの業に対して、これを「あの男はベルゼブルに取りつかれている。」言います。ベルゼベルとは悪霊の頭という意味です。このことから、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と批判していたのです。断罪し、悪い評判を与えようとする律法学者たちにイエスさまも反論されます。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。同じように、サタンが内輪もめして争えば、滅びてしまう。」もし自分がサタンであるならば、そのサタンの頭がサタンを追い出すという奇妙な事が起こる、それでは内輪もめではないかと、律法学者たちの批判の矛盾を突かれるのです。

悪霊について考えます。聖書の時代は、病気や障碍など原因がわからないものを悪霊の仕業と考えていました。イエス様の不思議な業も、その真相がわからないと悪霊の仕業にしていたのです。悪霊とは何でしょうか。悪霊はすぐにはそれとわかるような姿をとっていないのです。そして悪霊は外からやってくるだけでなく、すでに私たちの中に存在しているように思います。私の中で善なる霊と悪霊とがせめぎ合っているのです。善人がいつも善人とは限りません。悪人がいつも悪人とは限りません。その時、その人の中で悪と善との闘いが起こりせめぎ合っているのです。その意味で私たちは善であり続ける強さを持ち合わせないのです。しかし、イエス・キリストは、善であり続け、聖霊の力によって悪霊に打ち勝たれるのです。それが十字架です。イエス様の十字架の死は、決定的に悪霊に勝利された出来事です。それは神が望まれたことです。弱さの中であえいでいる私たちに、悪霊に勝利されたキリストを送り、私たちにも聖霊を送って弱さに打ち勝つように導かれるのです。

今日の福音書の日課に登場してくるイエス様の身内と律法学者に共通することは何でしょうか。それは共にイエス様を見誤っているということです。身内たちは、イエス様が身近であるために、律法学者たちはイエス様の奇跡そのものは認めてはいましたが、それを悪霊の頭の力としていたのです。私たちは理解できなこと、素直に受け入れられないことを否定する傾向があります。分からないことをあり得ないとするのです。しかし、これは傲慢な態度です。分からないことは、分からいないことの前に頭を垂れるべきです。神さまは人の理解を超えたお方です。そのお方の前で、人は頭を垂れるべきです。信じられないということは素直な態度です。しかしそれを否定や拒否することは厳に慎むべきことです。むしろ悪霊のかしらを追い出す力を持つイエス様が、私たちの弱さに寄り添い、イエス様自ら悪霊と闘ってくださり、私たちを救い、私たちにも力を与えて励まして下さるのです。