2018年7月1日 説教要旨 松岡俊一郎牧師

人の癒しを優先

マルコによる福音書3: 1 – 12

この世界が一週間で出来たという創世記の創造物語は、現代人の私たちにとっては神話でしかありません。しかし2千年前の聖書の時代のユダヤ人はそれを固く信じていました。ですから、数あるユダヤ教の律法の中で一番大切な戒めは、安息日を守ることでした。これは、神様が天地を創造された時に6日働いて7日目に休まれ、この日を聖なる日とするように命じられたことから、安息日を守ることはなにものにも優先される絶対的な戒めとされていたのです。そして安息日にあらゆる活動を止めるように求めています。

今日の福音書の日課、イエス様が会堂に入られた時、この日も安息日でしたが、そこに片手の不自由な人がいました。人々はイエス様がどうされるか見ていました。イエス様が律法違反をするかどうかを注目していたのです。イエス様は人々の心を見抜いてすでにいら立っておられたかもしれません。「安息日に律法で許されていることは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」と言われます。そして、この不自由な人を癒されるのです。

本来、律法は神さまのみ心を聞きそれに従うための手段でした。しかし、律法に対する熱心さが、守ることが目的となって行きました。そこではどんな状況で、どんな気持でということは問題ではなく、守るという一点だけが重要であったのです。これに対して、イエス様は律法の持っている目的、その心を大事に考えられたのです。良いことを行うこと、まして愛の行為を行うことは、律法の精神の中心です。その前では手段としての律法遵守は後ろに退くのです。今日の旧約聖書の日課の前を読むと、律法の愛の精神は、イエス様が初めていわれたのではなく、預言者たちによっても語られていたのです。

しかしファリサイ派の人々それを受け止めようとしない。だからこそイエス様は憤られたのです。

このような律法と安息日をめぐる議論は、現代の私たちとはあまり関係がないように思えます。しかしそうではありません。確かにユダヤ人たちが持っていたような律法を私たちは持っていませんが、律法的なものは多くあります。常識や社会的な慣習、社会の論理、政治の論理など、それぞれの立場に律法的なものがあり、そこに私たちは巻き込まれ支配されているのです。そして時としてそれは、人の心や人間性を奪い、良心と反する行動を迫るのです。どこまでそれと闘うかは、とても難しいことです。私たちはどこまでも人間関係の中で生きなければならないからです。しかしどんなときにも、私たちの心の中心は、イエス様が主張される愛に置きたいと思います。そしてその愛が私たちのすべてを支配するように祈り求めていきたいのです。