2018年6月10日 説教要旨 松岡俊一郎牧師

神様は招かれている

マルコによる福音書 2: 13 – 17

私たちが教会に来る動機はなんでしょうか。何を求めてくるのでしょうか。平安と安らぎ、正しさ、救い、慰め、勇気と励まし、交わりの喜び、それぞれ人によって違うと思いますし、それほどはっきりとは言えないかもしれません。はっきりとした苦しみからの救いを望むこともあれば、あいまいさの中に漂うこともあるからです。

さて、イエス様はガリラヤ湖のほとりを歩いておられると収税所がありました。そこでは徴税人が、運ばれてくる商品だけでなく、普通に通る人々の持ち物をチェックしてそれに自由に税をかけていました。彼らはユダヤ人でありながら、ローマ帝国の手先として働いていたこともあって、ユダヤ人たちの間では忌み嫌われていました。律法を犯す人々と同等に罪人として扱われ、差別の対象であったのです。

徴税人たちと民衆との間にはもはやどうすることもできないほどの溝があったのです。徴税人たちは仕事に対する誇りや喜びなどを感じることもなく、孤独な日々のなか、わずかな儲けに執着することだけが彼らの生きがいだったと思います。

イエス様はそこに座っていたアルファイの子レビに目をとめ、「わたしに従ってきなさい」と声をかけられます。イエス様のまなざしは他の人が徴税人を見る視線とは違っていました。イエス様のまなざしは、レビの喜びのない毎日の空虚感、人への不信、孤独を紛らわす金銭への執着、そのような心に向けられていたのです。だからこそ、イエス様の「わたしに従ってきなさい」という一言は、彼の閉ざされた心を打ち破ったのです。彼はすぐに立ち上がりイエス様に従いました。人とは違うまなざし、自分を受け止め迎え入れてくださるその心だけで充分であったのです。イエス様はレビの家で食卓に着かれました。そこにはほかの罪びとたちも一緒でした。

一方、その光景を面白く思わない別の視線がありました。ファリサイ派の律法学者たちです。彼らは弟子達を呼び寄せ「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と問いただします。ファリサイ派の人々の間には、誇り、自信、自慢する気持があります。しかしそこには、高慢な気持ちがありますし、他者への裁きや批判、軽蔑の気持ちがあります。イエス様への視線はそのような気持ちが込められていたのです。

ファリサイ派の律法学者と徴税人レビや罪人たちとの間には、全く違う気持ちと立場が交錯しています。一方は、社会的に特別扱いされ、自分はそれにふさわしいと自負していた人々です。他方は、いつも軽蔑と嫌悪のまなざしを向けられ、自分の存在や生活、仕事に誇りや自信を持つことのできない人々です。イエス様は罪人たちの食卓に着かれました。それは、彼らの満たされない思い、辛さや苦しみ、不安や恐れ、空しさや孤独をイエス様が引き受けるためにほかなりませんでした。ファリサイ派の人々には、罪人とされていた人々の気持ちなど分かりませんでしたし、分かろうともしませんでした。しかしイエス様は違いました。イエス様のほうから近づいて行かれたのです。罪人の彼らを引き揚げよう、引き寄せようとされるのではなく、自分から彼らのところに行かれたのです。この方向性はイエス様においては、そのお誕生から十字架に至るまで貫かれています。そしてもっとも弱い姿として十字架にかかり、その十字架によってすべての罪を引き受けられたのです。これによって罪びとは差別の対象ではなく、救いの対象と変えられたのです。