2018年5月27日 説教要旨 小林恵理香氏(信徒)

神の相続人

ヨハネによる福音書3: 1 – 12

ニコデモが、イエス様のもとを訪れたのは、夜でした。他の人に見られることを恐れて、暗くなってから訪問したのでしょう。さらに、象徴的な意味で理解することもできます。それは、律法を守る努力をし、エリート人生を送っていていたにも関わらず、ニコデモが歩んでいたのは暗闇の中であった、ということです。

イエス様がニコデモに対して、「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」と答えていますから、ニコデモの関心事が神の国であったことが分かります。ニコデモは、神の国に入りたかったのです。「神の国に入る」とは、ユダヤ人にとって「永遠の命を得る」ことと同じ意味です。律法を守ることで、神様との関わりに永遠に生きられると信じて、律法を実践してきたニコデモは、年を取って焦りや不安を感じていたのではないでしょうか?律法の求めを完全には満たすことができない、自分の限界を感じていたかもしれません。イエス様がなさった奇跡を見聞きし、神の国に近づくためのヒントや秘策を知っているかもしれないと考えて、イエス様を訪問したのです。

イエス様の回答は、ニコデモにとってあまりに意外なものでした。神の国を見るためには、新たに生まれなければならない、つまり、今の生き方の延長線上には神の国はない、とイエス様は言われます。人間の行いや努力によって生み出される結果は、人間の限界を超えることはできないのです。神の国に入るには、水と霊によって新たに生まれ、霊によって導かれる生き方へと変えられる必要があります。ニコデモには、イエス様がおっしゃることが分かりませんでした。表面的には理解したかもしれません。しかし、どうすれば新たに生まれることができるのか、見当もつかなかったのです。自分の行いと努力によって永遠の命をつかみ取ろうとしていたニコデモは、風が吹くように神様の一方的な恵みの業によって、新たに生まれることができると言われても、すぐには受け入れることができなかったに違いありません。

けれども、ニコデモの思いを超えた形で風は吹いたのです。この夜の対話の後、ニコデモは、ユダヤ人の指導者たちがイエス様を逮捕する相談をしているときには、仲間の指導者たちに対して抗議をし、イエス様が十字架に着けられ埋葬されるときには、没薬と沈香を持ってくるという形で聖書に登場します。そこには、弟子たちがユダヤ人たちを恐れて逃げてしまったような状況で、隠れず堂々と行動するニコデモの姿があります。

誰であれ、自分の意志で母親の胎内に入りなおすことも、努力によって聖霊に働きを強要することもできません。私たちが生まれ変わるプロセスは、聖霊の側に主体性があるのです。聖霊の働きによって、私たちがイエス様の言葉を理解し、父なる神さまとの関係の中に生きることができます。神の霊によって導かれるものは皆、神の子であると聖書は言います。そして、神の子であるということは、すなわち神の相続人でもあるということです。私たちは、聖霊によって、神の相続人としての生き方に押し出されます。

ルカによる福音書には、どうすれば永遠の命を受け継ぐことができるかと問われたイエス様が、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を信じなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい。」という律法を実行しなさいと言われたことが書かれています。また、「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」とも言われています。

神の相続人とされた私たちは、心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして神である主を愛し、また、隣人を自分のように愛する生き方を、今すでにいただいているのです。神の国を担うものとして、主の御声を聞くのです。「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。」

父と子と聖霊なる神が私たちを導いてくださいますように。