2018年5月20日 説教要旨 松岡俊一郎牧師

真理の霊の証し

使徒言行録2: 1-21
ヨハネによる福音書15: 26-16: 4a

今日はペンテコステ、聖霊降臨祭です。聖霊の神様の働きを覚える時です。聖霊というと、正直これが一番理解しにくいものです。一般に霊というと実体のない存在を指しますが、聖書は少し違って、神様の働き、神様の力と言っていいと思います。普通私たちは神様が共におられるという事を信じていますので、どんな人にもどんなときにも神様が傍らにおられて支え、助けてくださると信じています。ところが聖書によると聖霊は風のようなものだと言われています。風ですから吹く時もあれば吹かない時もある、強く吹く時もあれば弱い時もあるのです。つまり聖霊の働きも一定ではなく濃淡があるのです。しかし、風というのは空気の移動ですから、全く動かないということはほとんどない、風がないと思っても、わずかな空気の移動はあるのです。そしてそれに気がつくかつかないかは、私たちがそれを感じているかどうかなのです。それが信仰というものかもしれません。神様の働きや力は確かに働いている、でも私たちが聖霊の神様に心を向けていないならば、その働きにも気づかないのです。

創世記の天地創造物語の人間の創造で、人間は土の塵でその姿が形作られ、そこに神様の息が吹き入れられたとあります。旧約聖書の人間理解では、人は神様の息、聖霊を吹き入れることによって初めて生きた存在になると考えています。これはとても大切なことです。私たちの生活がどんなに豊かであっても、どんなに健康だと考えていても、旧約聖書はそれだけでは生きているとは考えないのです。私たちの心の深いところに聖霊の力が吹き入れられることによって私たちは生きるのです。

使徒書の日課では、弟子たちの上に聖霊が降ります。弟子たちもまた、死んだ者のようになっていました。愛し、信頼していた教師であったイエス様を失い、それも弟子たちは十字架の前で何もすることができず、むしろ裏切って散り散りに逃げまどい隠れていました。そんな自分たちに彼らは絶望していました。私はイエス様を失った悲しみよりも、そんな不甲斐ない、裏切り者でしかない自分に絶望することのほうが、彼らを苦しめるものはなかったのではないかと思うのです。もはや生きる望みも意味も見いだせずにいたのではないでしょうか。たしかに彼らは復活の主に会いました。天に上げられた姿も見ました。しかし、自分自身を振り返った時に、生きる価値をどれだけ見いだせたでしょうか。彼らもまた死んだ者のようになっていたのです。そんな彼らの上に、聖霊が炎のような舌の形をとって、分かれ分かれになり、一人一人の上にとどまったのです。するとどうでしょう、弟子たちは聖霊に満たされ、それまで人前に出るのも恐れていた彼らが、人前に出るだけでなく、いろいろな言葉で話しだしたのです。明らかにそこには大きな変化、彼らにとっての大転換が起こったのです。

聖霊降臨は、「聖霊が一人一人の上にとどまった」のです。聖霊は十派ひとからげにまとめてではなく、一人一人の上にとどまったのです。そしてそれは、神様の力がその人に必要なものをふさわしい形で与えられたということです。そこには濃淡があり、感じ取る信仰にも差があります。しかし聖霊は私たちの上にも注がれ、包み込み、私たちを押し出すのです。私たちは日々の生活の中で、毎日の仕事を通して神様の御業の担い手として押し出されるのです。