2018年5月13日 説教要旨 鈴木亮二氏(信徒)

心の目を開く

ルカによる福音書24: 44-53

今日の福音書はルカによる福音書ですが、第一の日課で読まれた使徒言行録とルカによる福音書は、同じ作者によって書かれたものです。福音書はイエス様の地上での活動、使徒言行録はその後の弟子たちの活動が書かれています。そういう意味で、今日の福音書の箇所と使徒言行録の最初の部分は、橋渡しの箇所として同じことが書かれています。

イエス様が弟子たちに語ったのは、聖書に書かれていることはすべて実現するということ、メシアは苦しみを受け三日目に死者の中から復活するということ、罪の赦しを得させる悔い改めがあらゆる国の人々に宣べ伝えられるということ、そしてイエス様の目の前にいる弟子たちがその証人となることでした。これらはすべて、イエス様が十字架に架かる前から弟子たちに伝えたことです。その時の弟子たちは、イエス様の言われることを理解できませんでした。しかし、イエス様が天に昇られ、ペンテコステで聖霊を受けた後、弟子たちは今日の箇所にある通りにこれらのことを世界に宣べ伝える証人となりました。イエス様が教えられたことを自分たちの中で理解することができるようになったのです。

信じられないことが目の前に起こると、それから先に起こることも信じてしまうということもあるかもしれません。何となく結果が想像できるものならこのように信じることもできますが、想像を超えたものを見たとき、ただあっけにとられるだけということもあるのではないでしょうか。イエス様の復活、そして今日の聖書の箇所である昇天、どちらも弟子たちにとっては想像もつかない出来事で、目の前で起きているけれど何かしら実感がなかったのだと思います。神様がなさることは、常に人間にとって想像がつかないことです。昇天も、私たち人間にとっては想像の範囲を超えています。そんな出来事を信じ、その証人として他の人に伝えていくことができるようになった弟子たちには一体何が起きたのでしょうか。

イエス様は、その復活を示すためにご自身の姿を弟子たちの前に現し、彼らの目を開かれました。弟子たちは復活された主の姿を見て、復活が起きたのだということはわかりました。けれども、これまでイエス様が散々弟子たちに話されていた言葉を理解することまで出来たのは、イエス様が弟子たちの心の目を開いてくださったからなのです。

自分の目の前で起こったことは事実ですから認めざるを得ません。けれどもその事実を自分のものとして理解するためには、心の目が開かれないと理解することができないのです。例えば、勉強をしている中で今まで全然つながらなくてわからなかったもののつながりが見えて、突然勉強がはかどるようになったという経験を持った人もいると思います。心の目が開けるというのは、きっとそのような瞬間なのです。

昇天は、弟子たちにとってはイエス様との第二の別れでした。第一の別れである十字架では、弟子たちは家に閉じこもっていました。しかしこの第二の別れの後では「大喜びでエルサレムに帰った」のです。別れというのはいつも寂しいものです。昇天の別れで弟子たちが大喜びをすることができたのは、イエス様が彼らの心の目を開いてくださったからです。

私たちの二つの目でイエス様を直接見た人はいないかもしれません。でも、イエス様に会えることを心の中で願っていれば、きっとイエス様は私たちの心の目を開いてくださり、イエス様が語ってくださったことが見えてくる、理解できてくるのです。

弟子たちは、イエス様が心の目を開いてくださったことによってその証人となり、世界に教会が建てられました。イエス様が昇天されてから2000年経った今でも世界中の教会はその証人としてイエス様のことを伝えています。イエス様が必ず私たちの心の目を開いてくださるという何よりの証拠なのです。