信じられないことが起こった
マルコによる福音書16: 9-18
マルコによる福音書によると、11人の弟子が食事をしている時にイエス様は現れ、何の前振りもなく「弟子たちの不信仰とかたくなな心をお咎めになった」とされています。その理由として「復活されたイエスを見た人々の言うことを信じなかったからである」と述べられています。復活には不信が付きまといます。まるで復活と信じられないという事は同義語であるかのようです。ですから弟子たちが、前の二つの出来事、マグダラのマリアに現れ、それを二人の弟子に伝えたこと、また二人の無名の弟子がエマオという村に向かう途中に現れ、それがイエス様と分かってあわててエルサレムに戻って他の弟子に伝えました。それでも他の弟子たちは信じられなかったのです。そして信じられなかったことは無理もないことだったのです。しかし復活のイエス様にとがめられています。
死は人にとって絶対です。どんなに死を逃れたいと願っていても、それを自分ではどうすることもできません。死は受け入れるしかないのです。ただ、どのように受け入れるかは大きな違いがあります。あきらめとして受け入れるか、希望として受け入れるかです。死は生き物である以上間違いなく訪れるわけですから、それをあきらめ、その終点付きの人生を精一杯生きるという生き方もあります。しかし、そこには心の奥底にある死に対しての不安がなくなるわけではありません。生活や仕事、趣味や人間関係に一生懸命になれる時はいいのですが、ふとした瞬間に死の闇が迫ってくるのです。もう一つは死を絶対的な終わりとするのではなく、通過点と考えることです。その根拠がイエス・キリストの復活です。死は科学的、経験的な事実です。しかし復活のいのちは、信仰的な真実なのです。通常私たちはこの科学的な価値観、経験則に基づいて生きていますからそれ以外のことはありえないと排除するのです。しかし信仰はそれ以外の可能性を排除しないのです。残念ながら科学的な力や経験では復活を証明することはできません。復活は信じるしかないのです。イエス様は「不信仰とかたくなな心をお咎めになりました。」イエス様は生前、子どものようにならなければ神の国に入ることはできないとおっしゃいました。私たち大人は、知識や常識が信じることの邪魔をします。それはもっと言えば、自分たちの力や経験を絶対的な基準としているからです。信仰はそれを神様に明け渡すことでもあります。そこから復活信仰が始まり、救いがあるのです。