2019年7月7日 説教要旨 松岡俊一郎牧師

わたしの十字架を負われる主イエス

ルカによる福音書 9: 18 – 26

私たちの間では、礼拝をする時、「ミサを捧げる」とか「礼拝を捧げる」と言うことがあるように、信仰は私から神様に向かっています。私が神様に心を向け、私が学び、祈り、礼拝出席などを努力し、信じるように私が頑張るのです。ところが、教会は実はそのようには考えていません。礼拝のことを英語ではサービスと言います。それはあたかも私たちが神様に奉仕するという風に聞こえます。しかしそうではありません。ドイツ語では礼拝のことをGottesdienstと言います。それは神の奉仕という意味です。礼拝においては私たちが奉仕するのではなく、神様がみ言葉と聖餐によって私たちに奉仕してくださると考えるのです。

信仰も、「私が信じる」「私の信仰」という気持ちにとどまるのではなく、「神様が」私たちに奉仕してくださる、その奉仕を受け入れることが、神様を信じることなのです。これも私の努力でそうなるのではなく、神様の働きを受け入れる、心を開くということだけで、あとはすべて神様が聖霊を通して働いてくださるのです。

イエス様は弟子たちに「群衆はわたしを何者だと言っているか」とお尋ねになります。弟子たちが人々は「洗礼者ヨハネだ」とか「預言者エリヤ」だと言っていると評判を答えると、さらに「それでは、あなたがたは、わたしを何者だというのか」と問われました。イエス様を何者だと答えることは、とりもなおさずイエス様をどのように理解しているかを表しますし、答える人がイエス様をどのような関係で見ているかということもあらわすのです。あいまいさを許さない問いです。この問いに対してペトロは「神からのメシアです」と答えます。ペトロの答えは模範的なものでした。しかし、イエス様が考えておられたメシア像は、十字架という苦しみを受け、復活することによって神様の救いを実現するメシアなのです。

信仰告白は、自分の信仰を告白するだけでなく、私の信仰をも強めます。信仰を告白することは、自分の信仰の確認です。イエス様がどんなお方かを確認することは、神様がどれほどに私たちを愛し、どのようの仕方で救おうとされたかがわかるからです。信仰告白は信仰の確認でもあります。そしてその信仰告白と共同体の祈りは、その人の信仰が弱くなり、心が離れる、祈れなくなった時も、共同体がその人の信仰を支え、とりなして祈ってくれるのです。

イエス様は「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである」と言われました。イエス様に従うことは、平和な時代にあっても、宗教への偏見や差別、家族や職場との関係がありますからたやすいことではありません。誰にも信仰や教会生活のことを話さない「小さな隠れキリシタン」にならなければうまくいきません。いや、話さないほうがうまく生活できます。しかし、それはやがて私たちの信仰を弱めます。信仰抜き、教会抜きの生活を優先せざるを得なくなるのです。パウロはローマの信徒への手紙10章で「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」と言っています。