創造と復活の神
列王記上 17: 17 – 24
ルカによる福音書 7: 11 – 17
本日は、神が人間の命と復活をつかさどっている、がテーマです。最初の箇所では、エリヤが、女主人の息絶えた息子に、呼びかけます。「主よ、どうかこの子の命を元に戻してください。」すると、生き返ります。
ルカによる福音書で、イエスは、やもめの息子を生き返らせます。「若者よ、あなたに言う、起きなさい。」すると死人は起き上がります。この話は、エリヤの奇蹟をなぞっています。イエスは、《母親を見て憐れに思》いました。息子に死なれた母親の苦しみを自分のこととして苦しんだのです。そして「起きなさい」と、権威をもって命じました。
さて死人は、復活するのか。生き返らないものを、死人といいます。ありえないことが起こるのが、奇蹟です。それが、本当に起こると考えられるかどうか。
ひとに命を与えるのも、命を奪うのも、神です。私の命を、神が造った。このことを信じるのが、信仰でした。でも、復活は信じにくいと思うひとが多いのです。復活は、実は信じやすい、と私は思います。復活は、二回目の創造です。神が私を、創造した。そう信じるなら、ほぼ自動的に、復活を信じることができます。
よくこんなことを質問されます。いまどきよく、天地創造なんて信じられますね。太陽や月は、ビッグバンのあと出来たのは、天文学で明らか。人間がサルから進化したのは、化石から明らか。こんな科学の時代に、創造を信じるなんてどういうつもりですか。
アメリカの教会は、創造と自然科学を両立させる、うまい考え方を工夫しています。
アメリカで、哲学の先生が黒板に、自動車ナンバーを書きました。「XY76WS」。「諸君。裏の駐車場の車のナンバーが、こうなる可能性は?」学生は答えます、「その可能性は、ほぼゼロです」。すると教授は言います、「確率は1だな。さっきこの車を私が停めたんだから。」どんなありそうもない出来事でも、実際に起これば、確率は1。さてジョンがいます。ジョンは、炭素や水素やタンパク質が並んだ、自動車のナンバーのようなものです。その並びが、ジョンになる可能性は?限りなくゼロでしょう。でも現に、ジョンがいる。メアリーも、私もいる。そのことを説明できますか。自然科学を総動員しても、めったに起こらない偶然だ。奇蹟だ、としか言えないのです。
そんな奇蹟はなぜ、起こるのか。偶然を必然にする力、奇蹟を起こす力が、働いたからです。それが、創造でなくてなんでしょう。この、創造のわざを行なったのは、神です。それは毎日、目の前に起こっているのです。
こうしてジョンやメアリーや私は、理由があって創造されたことになります。それは、人間がみな、神によって生命を与えられ、そして復活する、ということと同じなのです。