2019年6月2日 説教要旨 松岡俊一郎牧師

わたしに会うために

ルカによる福音書 24: 44 – 53

ここ数週間、交通事故や殺人事件で幼い子供のいのちが何人も奪われました。大変心を痛める出来事で、言葉もありません。なぜ幼い命が無残にも奪われるのか、幼い子供だけでなく、災害などを考えると、なぜ多くの人の命が奪われるのか。なぜ、という問いが繰り返し沸き起こります。神様の御心がわかりません。そして教会もまたそれに対して答えを持たないのです。ただその神様の考え、意図は分からないけれど、神様が離れておられるのだけは、確かだと思います。

復活のイエス様は弟子たちが見ている前で、天に上げられました。この出来事は、私たちに何を伝えようとしているのでしょうか。イエス様が天に昇られ、人々の目からその姿が隠されたということは、イエス様がいなくなった、存在しなくなったというのではありません。むしろその逆で、人の視野とか視界という限定される存在から限定されない存在になられたということを意味します。普通に考えると、確かめられることは存在し、確かめることができないことは存在しないと考えがちですが、真実はその逆で、確かめられるから存在する、確かめられないものは存在しないのではなく、存在しているものを人が確かめられるか、そうでないかでしかないのです。そういう意味でイエス様の昇天は、イエス様が人によって確かめられる存在でなくなった、確かめられる存在から、信じる存在へと変えられたのです。そしてそれは人の心に沸き起こり、人の考えを縛っている知識や常識という、あらゆる限定を超えられたということです。そのことによって、イエス様は二千年前のイスラエル限定の人から、時代を超えて世界のすべての人に信じられる存在となられたのです。

ヘブライ人への手紙11章1節には「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」と言い、さらに「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことがわかっているのです」と言っています。目に見えるもの、確かめられることが存在の根拠ではなく、神様の言葉がすべての根拠となるのです。

たとえ目に見えなくても、たとえその存在を人が確かめられなくても、イエス様はその約束の言葉通り、いつも私たちと共にいてくださるのです。昇天を聞くとき、その不思議さから私たちの気持ちはどことなく引いてしまうのですが、むしろ昇天がなかったならば、イエス様はいつまでも二千年前の弟子たちのイエス様でしかなかったのです。

信じることによる喜びは永遠です。一見頼りなく、不確かであるような信仰こそが、人を神様の救いの確かさに導くのです。イエス様の昇天を目撃した後、弟子たちが大喜びでエルサレムに帰っていきました。それは天使たちから再びおいでになることを知らされ、イエス様がいなくなったのではなく、いつも一緒にいてくださることを確信したからに他なりませんでした。信仰が自然に沸き起こるのでなく、もたらされるものであることを教えています。