求め続ける
ルカによる福音書 18: 31 – 43
昨年末に新しい訳の聖書が発行されました。「聖書聖書協会共同訳」です。ほとんど新共同訳がベースになっていて、細かくは見ていませんが、どこが変わったのだろうという感じです。聖書の言葉は私たちの心になじむことが一番ですから、文語訳の方がしっくりくるという方も多いでしょう。例えば「求めよ、さらば与えられん」という言葉もそうでしょう。この言葉は、新共同訳の「求めなさい。そうすれば、与えられる」では、今ひとつしっくりきません。新しい聖書でも同じ訳です。この聖句は「求めよ」という強い言葉が大切だと思うからです。求める。聖書が言いたいのは、それは片手間に欲しがることではありません。あってもいいし、なくてもいいというものではありません。全身全霊をもって求めることであり、それが無ければ生きていけないというところのものです。
イエス様の一行はエリコの町に入ろうとされていました。この街はエルサレムに向かう街道沿いの荒れ野の中にある大変古い町です。この出来事のすぐ後にイエス様の一行はエルサレムに入られ、いよいよ受難の出来事が近づいていますので、過ぎ越しの祭が近いことが分かります。ある目の不自由な人が座り込んで物乞いをしていました。イエス様の時代は病気や障碍のある人は悪霊が取り付いているとか、罪の結果そうなっていると考えられていましたので、彼は差別され社会の中にあっても社会の一員ではなかったのです。そんな彼に仕事があるはずもなく、彼にとっては物乞いをして人の憐れみにすがって生きる以外にはなかったのです。そんな彼の前をイエス様の一行が通ります。彼はイエス様が自分にとって特別な人、自分の命の状況に変化を与えてくださるお方と直観的に確信したのです。するとイエス様は足を止め、そばに連れてくるように命じられました。彼は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエス様のところに来ました。そこでイエス様は「何をしてほしいのか」と言われます。彼は目が不自由でした。だからこそ社会の一員として扱われず、仕事もなく、物乞いするしかありませんでした。彼はすぐに「主よ、目が見えるようになりたいのです」と答えました。彼にとっては目が見えないということが、彼の人生を変えるカギであったのです。イエス様は「見えるようになれ。
あなたの信仰があなたを救った」と言われ、彼はすぐに見えるようになったのです。「あなたの信仰があなたを救った」たいへん印象的な言葉です。しかし考えてみると、彼には私たちが知っているような聖書の知識も弟子達が直接に見聞きしていたようなイエス様の情報も、ほとんどなかったと言ってよいと思います。しかし、イエス様を知らなくてもイエス様を受け入れる素地は山とあったのです。障碍とそこからくる差別や排斥、人並みに仕事も生活もできないこと、貧困と空腹、病気への危機、人間不信と自分への絶望感、神様の憐れみを受けるには、神様の憐れみを求めるには十分な状況があったのです。数々の不自由さと苦難を負ったこの人は、そこからの呻きとして「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫び続けたのです。人々がそれを止めようとしても彼は叫び続けたのです。イエス様はこれを「信仰」と呼んでくださり、その信仰に神様の力が働いたのです。
私たちも生活の真っただ中、心の苦しみの真っただ中から、イエス様の憐れみを求め続けるのです。そして私たちが主の憐れみを求め続ける時、主は十字架の上から「あなたの信仰があなたを救った」と教えてくださるのです。