2019年2月10日 説教要旨 橋爪大三郎氏(信徒)

「律法を超える教え」

ルカによる福音書 6: 27 – 36

イエスが、最初にまとまった教えをのべたのが、「山上の垂訓」でした。「敵を愛しなさい。上着を奪う者には、下着も奪わせなさい。」思い切った教えです。上着は当時は大切で、夜はそれにくるまって寝ます。それを奪うのは、腕ずくです。切羽詰まった同胞のことを、思いやりなさい、という教えです。このように見ると、「山上の垂訓」のテーマは、「貧しさ」です。だから、「貧しい人びとは、幸いである、神の国はあなたがたのものである。」と始まるのです。

貧しい人びとは、貧しさもさることながら、人びとの偏見によって苦しみます。あんなに貧しいのは、神が与えた罰に違いない。けれどもイエスは、貧しいことは、あなたの責任ではない。こう言って、貧しい人びとを、勇気づけます。「貧しい」の箇所は、マタイ福音書は、「心の貧しい」になっています。これだと意味がぼんやりします。でもイエスは、「貧しい人びと」は幸いであると、ストレートに教えたのです。要するに、貧乏のこと。だから人びとは、びっくりしました。

貧しいことは、いいことなのか。誰だって、そうでないほうがいいに決まっています。ではなぜ、「貧しい人びとは幸い」なのか。イエスの時代に、商品経済が盛んになって、勝ち組と負け組の格差がひどくなっていました。イエスはこの現実に、心を痛めました。貧しいことは、罪ではない。自信を持ちなさい。これが第一の教えです。そして、格差や不平等をそのままにするのが、神の意思だと思ってはならない。そこであなたは、何ができるか、自分で考えなさい。律法をただ守っているだけでは、格差も不平等もなくならない。律法を超えて進みなさい。これが第二の、大事な教えです。

「貧しい人びとは、幸いである。」なぜでしょう。第一に、貧しい人びとは、悩み苦しんでいる人びとを思いやり、共感しやすいのです。神は、悩み苦しむ人びとと共におられます。その神と同じようにできるから、「幸い」なのです。豊かなひとは、貧しい人びとと共にあることがむずかしいのです。

神は、貧しいもの、弱いもののために、できることをしなさい、と私たちに命じます。では、何をすればよいか。神殿で、貧しいやもめが、なけなしの硬貨1枚を献げると、イエスは、彼女がいちばん多く献げたと言いました。神はいつも貧しいものの、信仰の歩みをみていて下さる。これが、貧しいひとが幸いである、第二の理由です。

では、この貧しいやもめのように、硬貨が2枚あったら1枚を献げないとだめなのでしょうか。そう決めてしまえば、律法です。律法にとらわれなくてよい。どんなにささやかでも、信仰によって献げれば、神は喜ばれるのです。

「上着を奪う者に、下着も拒んではならない。」そう教えたイエスは、上着も下着も奪われ、十字架につけられました。イエスの生涯は、「山上の垂訓」を生きる生涯でした。「上着を奪われる」とは、悩み苦しむ人びとのため、自分も痛みを分かち合うことです。それができるよう、神さまがきっと勇気を与えてくださるのです。