主イエスが向かう道
ルカによる福音書 19: 28 – 40
昨日、教会のクリスマスイルミネーションの点灯式を行いました。12月になりあちらこちらでイルミネーションの点灯が始まりました。残念ながら教会のイルミネーションは他に比べて見劣りがします。しかし別の見方をすれば、これこそ貧しさの中に現れる希望の光、聖書的、教会的な明かりだと言えるかもしれません。負け惜しみに聞こえないといいのですが。
今日の旧約聖書の日課には、神様がエレミヤに語られたエルサレム復興の預言です。神様がエレミヤに語られた時、イスラエルの民はバビロニアに捕囚として捕らわれ、残ったエレミヤも獄につながれていました。まさにイスラエルにとっては絶望的な状況の時に、イスラエルが復興されると約束されているのです。それはあたかもエレミヤの預言が実現しない、空論であるかのようです。
しかし教会は、この預言はキリストによって成就したと考えます。そしてそれは単に国としてのイスラエル、民族としてのユダヤ人の救いではなく、人類の救いの出来事として宣べ伝えるのです。確かに個々に国々の紛争は続いています。戦争はなくても命を脅かされる飢餓があり、政治的に弾圧されている人々がおり、差別、暴力はなくならず、倫理的に破壊された社会、冷え切った人間関係と孤独があります。今の私たちの時代、世界、社会は希望のない絶望的な社会です。それでも救いの言葉は、そのような私たちに与えられるのです。
福音書の日課。時はユダヤの最大のお祭り、過ぎ越しの祭の時でした。年に一度のお祭りですから、地方からもたくさんの巡礼者が集まり、神殿とそのまわりは大変な人でにぎわっていたと思われます。そんな時、イエス様はエルサレムに入ろうとされています。ただの神殿参拝ではありません。ご自分が十字架にかかり殺されるということを分かった上での覚悟のエルサレム入城です。その姿は見方によっては、さえない姿でした。英雄の凱旋であれば、軍馬が登場するはずです。そうではなく子どものロバです。ルカ福音書は、ここでは大勢の群衆とは言っていません。弟子たちの集団です。それは大した人数ではありません。なぜなら、祭に際しては、暴動が起こらないようにローマの兵隊の警備は一層厳しかったはずですし、ここではローマ兵はそのような反応を見せていないからです。しかし、たとえそれがみすぼらしい姿であったとしても、人々の注目を集めないものであったとしても、主イエスは救い主としておいでになったのです。そして主は十字架という一番みすぼらしい姿で救いを実現されたのです。
子ロバは弱さのシンボル。平和の証しです。そして神様は、パウロが言うように、弱さの中で働かれる神様です。人は強さを好み弱さを嫌います。弱さは避けられるものならば避けたい。人は強くなりたい、勝ち残りたいと思うのです。しかし競い合いの中に神様はおられません。むしろ神様は弱さの中におられるのです。敗北の中に、弱さの中におられ、そこで神ご自身が勝利されるのです。勝ち負けは私たちの基準です。感じ方です。真実の勝利と平和は神様のもとにあります。私たちは人の思い、人間的な勝ち負けにこだわるのではなく、神様の絶対の中に生きるのです。そうする時、私たちは解放され、自由になり、平安が与えられるのです。
今の世界において、現代社会において平和はあり得ないことのように思えます。しかしそうではありません。神さまの救いはキリストによって実現しています。このキリストの愛が広まることによって、その救いはこの世界で現実のものとなります。私たちはその救いを宣べ伝えるのです。私たちはその救い主のお誕生を迎えようとしています。