2026年3月22日 説教 小林恵理香氏 (信徒)

墓の中にまで届く神の声

エゼキエル書 37: 1 – 14、ヨハネによる福音書 11: 1 – 45

私たちの人生には受け入れがたい出来事、悲しみや痛みを伴う事柄が起こります。そのような出来事は、私たちが良い行いをしたか、しなかったか、周囲の人と良好な関係を築いているか、そうでないか、信仰を持っているか、いないかとは、一切関係なく、私たちのもとに訪れます。病気や事故、天災あるいは人災など理不尽とも思われる状況によってもたらされる近しい人の死は、その最たるものです。なぜ私たちがそのような出来事を経験しなければならないのか、なぜ悲しみや痛みに直面しなければならないのかという問いに、誰もが納得するような明確な答えはありません。

本日の日課では、ラザロが病気であることを知りつつ、イエス様がなおも同じ場所に 2 日間滞在されている間にラザロは死に、墓に葬られていました。イエス様が墓の入り口に来られた時、マルタは「もう 4 日もたっています。」と言っています。当時のユダヤ教の教えでは、死後 3 日までは魂が遺体の周りに漂っていますが、4 日目には完全に離れると信じられていました。4 日もたっているということは、ラザロが完全に死んでいるということを意味します。さらに腐敗も進んでいるということであれば、人間側の理屈ではラザロが生き返る可能性はゼロです。

ラザロが病気であると聞いてイエス様は「(この病気は)神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」と言われました。しかし、悲しみや苦難の中にある人にとって最大の関心事は、神様の栄光ではなく、今、目の前にいる人の癒しではないでしょうか?
マルタやマリアは「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。」という嘆きの言葉を口にしています。マルタとマリアはイエス様が救い主であり、ラザロの病気を癒す力を持っていると信じていました。だから、人をやってラザロが病気であることをイエス様に伝え、イエス様による救いを信じて願ったのにイエス様は来てくださらなかった、その結果自分たちは大きな悲しみのどん底にいると、二人は感じていたのです。マルタとマリアの言葉は、それほどに苦しかった、不安だった、悲しかった、つらかったという思いの表れでもあります。そしてその思いを素直にイエス様にぶつけるものです。イエス様はそんな二人の思いを共に担い、マリアや一緒にいたユダヤ人たちと同じく涙を流されました。
そして、神様に祈りをささげた後、「ラザロ、出てきなさい」とラザロに向かって大声で叫ばれました。
ラザロのよみがえりは超人的な力による奇跡ではなく、イエス様による深い共感から起こった出来事です。人間にはどうしようもない絶望的な状況において、共に苦しみ、涙を流される方が、私たちへの愛に突き動かされて私たちを絶望から呼び戻してくださる救いの業です。

私たちが肉体を持って生きている以上、死は避けて通れない現実です。私たちは愛する人の死を経験し、また私たち自身にもいずれ死が訪れます。なぜその人に、そのようなタイミングで、そのような形で死が訪れるのかということについて御心を図りかねたとしても、神様が苦難の中にある私たちと共にいて、私たちの悲しみを担い、私たちに神様の命を注いでくださっていることもまた真理だと思います。神様が死の力を打ち破り、神様と共に生きる命を与えてくださることを、本日の聖書箇所は語ります。

マルタとマリアが「あなたの愛しておられる者が病気なのです。」とイエス様に伝えた時、「愛する」という言葉に使われた動詞はフェレオーというギリシャ語が使われているそうです。フィレオ―とは親しい友人は家族間における愛情を示す言葉です。
一方、「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。」と書かれている箇所は、アガペーという動詞で表現されているそうです。すなわち、イエス様は、神様の無条件の愛、相手のために自己を犠牲にする愛でマルタとその姉妹とラザロを愛しておられたということです。
ヨハネによる福音書11章45節以降を読むと、ラザロを生き返らせたこの出来事がイエス様の十字架での処刑を決定づけたことが分かります。ラザロに命を与えたこととイエス様自身の死は密接に結びついています。イエス様はラザロと二人の姉妹を愛され、ラザロを生き返らせることが自分を死に追いやることだと知りつつ、その墓の前に立たれたのです。
イエス様の「ラザロ、出てきなさい」という言葉によって呼び戻されたのは肉体の命です。ラザロの肉体はいずれまた死を迎えることになります。では、イエス様の「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」とはどのような意味なのでしょうか?

ローマの信徒への手紙 6:23 に「罪が支払う報酬は死です。」という有名な言葉があります。罪とは、人間が神様との関係が壊れ、神様から切り離されてしまった状態を指す言葉です。神様の姿を見失い、自分の力では再び神様との関係を築けない状態が罪であり、その結果もたらされるものは、神様のいのちに対する死です。

聖書はすべての人が罪びとであると言います。私たちは皆、神様から離れ、自分の力で神様のもとに立ち戻ることができない存在です。私たちが肉体の死から逃れられないのと同じように、私たちは罪によって自分の力では神様との関係においても死の支配から逃れられない存在です。そのような私たちが再び命をいただくためには、神様からの一方的な働きかけが必要です。私たちに命を与えるために、神様はイエス様を十字架の死へと渡されるのです。そして、復活であり、命であるイエス様の言葉を聞くことで、私たちは死の状態から新しい命へと変えられます。

ラザロはイエス様の言葉によって墓から出てきました。エゼキエル書 37 章においては、預言者が神様の言葉を語り、神様の霊が吹き込まれることによって枯れた骨が生き返ります。

イエス様を信じるということは、その教えを頭に理解し、自らの意思でイエス様について行くことではなく、墓の中に横たわり自分の力では動けないような状況や深い谷の底で枯れた骨のように希望がついえた状態にあるときに、神様の声によって命の歩みへと移されるプロセスだということができます。そして、イエス様によって私たちに与えられる復活と命は、遠い将来の話ではなく、イエス様と共に歩む私たちが今すでにいただいている恵みです。目をそらしたくなるような現実、受け入れがたい状況、何によっても癒すことができないと思われるような悲しみや苦しみ、そんな私たちのもとに今イエス様の声が響いてきます。「出てきなさい。」

四旬節も第 5 主日を迎えました。来週は枝の主日、翌週はイースターです。復活の主を待ち望み、主によって新しい命に生かされる日々でありますように。