2026年2月15日 説教 鷲見和哉神学生

主の変容

マタイによる福音書 17: 1 – 9

本日は主の変容主日となっています。来週から始まる四旬節の転換点となる日です。四旬節とは、イエス様の十字架と復活を覚えるイースターに向けて、私たちが静かに備える期間です。その橋渡しとなるのが今日の聖書箇所です。本日のマタイによる福音書では、イエス様の姿が変わり、その栄光を弟子たちに表されたということが記されています。この箇所は私たちにとってどのような意味があるのでしょうか。 今日の聖書箇所では旧約聖書に登場する人物が二人描かれています。それがモーセとエリヤです。モーセは神様によって選ばれて、奴隷となって苦しんでいたイスラエルの民をエジプトから導き出した人物です。またシナイ山という山で、神様から十の掟が記された十戒、つまり律法を授かり、それを民に伝えた預言者でもありました。次にエリヤは、バアルという偶像を礼拝していた民と王に対して、神様へ立ち帰るように求めた預言者でした。
そのためエリヤは命を狙われ、荒れ野に逃れました。しかし神様はエリヤを見捨てず、ホレブ山にてご自身の姿を表されたのでした。また、エリヤは死を経験せずに天に上げられた人物としても知られています。旧約聖書の最後の書であるマラキ書には、そのエリヤが再びこの世にやってくるという預言が記されています。モーセとエリヤは旧約聖書を代表するような、大変重要な人物たちでした。

そんなモーセとエリヤが、イエス様たちの前に現れるのです。イエス様は弟子たちとともに山に登られました。するとイエス様の姿が変わり、ご自身の栄光を表されるのです。さらにその場にモーセとエリヤまで現れました。あのモーセとエリヤが目の前にいるのですから、弟子たちにとっては実に驚くべき出来事でした。この情景を見てペトロが言います。
「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」この言葉、特に「仮小屋」という言葉は現代を生きる私たちにはあまりピンときません。しかしイスラエルの人々にとっては特別な意味を持っていました。
先ほどお話しさせていただいたモーセがエジプトから民を導き出す際、神様は「幕屋」というものを作るようにモーセにお命じになりました。モーセとイスラエルの民はエジプトを出た後、荒れ野をさまよわなくてはなりませんでした。そこで神様は、神様がイスラエルの民と出会われる場所として「幕屋」を作らせました。荒れ野の旅の中で、神様は幕屋を通して「わたしはあなたがたと共にいる」ということを示されたのです。ペトロの仮小屋を建てましょうという言葉は、この神様の幕屋を連想させます。もしかするとペトロは、仮小屋を建てることによって、あの幕屋のように栄光に輝くイエス様たちをその場にとどめておきたいと考えたのかもしれません。

しかし、光り輝く雲から「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が聞こえてきます。この雲の中から語り掛ける場面は、本日の第一の朗読にもあった出エジプト記と非常に深い関係があります。本日の第一の朗読には「モーセが山に登って行くと、雲は山を覆った。主の栄光がシナイ山の上にとどまり、雲は六日の間、山を覆っていた。七日目に、主は雲の中からモーセに呼びかけられた。」とあります。また本日のマタイによる福音書は、「六日の後」という言葉で始まっています。出エジプト記にも「雲は六日の間、山を覆っていた。七日目に」とあるように、本日の聖書箇所は出エジプト記と非常に綿密な関係があるのです。ここから分かることは、雲の中から語り掛ける声の主は神様だということです。出エジプト記で神様が雲の中からモーセに語り掛けたように、雲の中から弟子たちに向かって「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」と神様が語り掛けておられるのです。ここでは、イエス様が神様の子であるということがはっきりと表されています。イエス様の姿が変わるだけでなく、雲の中からの声を通して、イエス様が神の子であるということが示されているのです。この出来事を見た弟子たちは非常に恐れます。弟子たちが再び顔を上げると、モーセとエリヤの姿はありませんでした。そしてイエス様と弟子たちは山を下り、イエス様は「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちにお命じになられるのです。 今日の聖書箇所は私たちに何を語り掛けているのでしょうか。一つ目は先ほどもお話ししたように、イエス様が神の子であるということです。イエス様は、モーセに代表されるような指導者でも、エリヤのような預言者でもなく、生ける神の子であるということが示されているのです。「これに聞け」という言葉も重要です。私たちはイエス様の言葉を聞いていくのです。モーセが語り伝えた律法やエリヤの預言の言葉は確かに大切なものです。しかし私たちが最も聞くべきなのは、イエス様のお言葉なのです。四旬節は、イエス様のたどった道のりを覚える期間でもあります。私たちはこの期間を静かに、そしてイエス様のお言葉を聞きながら過ごしていくのです。

そしてもう一つの重要な点が、イエス様が山を下りられ、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられたということです。ペトロは仮小屋を建てることを提案しました。しかしイエス様は山を下りられるのです。なぜイエス様は山を下りられたのでしょうか。そしてなぜこの出来事を人の子が死者の中から復活するまでは話してはならないとお命じになったのでしょうか。
そもそも山は、神様が栄光を示される場所であると考えられていました。モーセはシナイ山にて神様と出会い、エジプトからイスラエルの民を導き出すことを命じられました。エリヤもまたホレブ山にて神様と出会います。このように山は、神様が栄光を表される場所、神様と出会う場所という特別な意味を持っていました。しかしイエス様は、そんな神様が栄光を表される場所である山を下りられるのです。イエス様はなぜ山を下りられたのか。
それは、十字架にかかるためでした。イエス様は神の子です。出エジプト記との対比にもあったように、イエス様はまことの神の子であり、栄光のうちにおられる方です。しかしその方が、山の上の栄光にとどまるのではなく、十字架への道を歩まれるのです。
イエス様が山を下りられ、十字架へ向けて歩まれたことは、私たちにとってどのような意味を持つのでしょうか。山は人間が神様の栄光に出会う場所でした。つまり山とは、私たちにとって神様の栄光を実感できる瞬間を表しているのではないでしょうか。例えば人生の絶頂、喜びの瞬間は、私たちにとって神様の恵みを実感できるときでもあります。仕事が成功した時、結婚や進路、就職が望みどおりに進むとき、はたまた何気ない小さな幸せの瞬間に私たちは神様の恵みというものを実感します。それは確かに私たちにとって祝福されるべき、喜びの瞬間です。しかしともすると私たちは、そのようでない瞬間、つまり仕事がうまくいかない時、人生が思い通りに運ばない時、幸福を感じられない時であると、神様が共におられないかのように感じられてしまうことがあります。この不幸のただ中のどこに神様がおられるのか。そのように感じられてしまう瞬間があるのです。また、人生には病、事故、戦争など、私たちにとって予想もできないような不幸に見舞われることもあります。そのような時、私たちは神様はどこにおられるのか、という気持ちを抱いてしまうのではないでしょうか。
しかしイエス様は山を下りられ、十字架へと歩まれるのです。十字架とは何か。山が人生の喜びの瞬間である場合、十字架とはまさに人生におけるどん底の瞬間です。私たちが人生の中で、最も味わいたくない、絶対に逃れたいと思うような瞬間のことです。しかしイエス様は、ただ山の上にとどまっておられる方ではなく、十字架にかかるため、つまり私たちの人生の最も苦しい時に共におられ、その悲しみの瞬間をともに味わう方として歩まれたのです。私たちはしばしば、神様の栄光が表される瞬間にとどまっていたいと考えてしまいます。それこそペトロが仮小屋を建てて、イエス様の栄光が表された瞬間を山の上にとどめようとしたように、私たちもまたイエス様を山の上にとどめようとしてしまうのです。しかし神様は、そんな私たちに「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」と語り掛けているのです。私たちは山の上の栄光にとどまろうとせず、十字架へと歩まれるイエス様の声を聞いていくのです。なぜイエス様は「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と語ったのか。それは、イエス様は十字架と復活を通してこそ、ご自身の栄光を表される方であるからです。イエス様は神の栄光に充ちた山の上ではなく、十字架にかかり復活することによってこそご自身の栄光を表されるのです。私たちが出会う、一見そこに神様の姿を見ることができないかのような悲惨な現実、そのような中にも身を置いて、共にいてくださる方として、イエス様は歩まれたのです。

私たちは人生の中で、イエス様の御姿を見失うときがあります。苦しい現実の中で神様を見失ってしまったり、あるいは今までのよい思い出の中にとどまろうとしてしまったりします。しかしイエス様はそんな私たちに、十字架の上においてもあなたがたと共におられるのだと語り掛けているのです。私たちの人生の最も暗い瞬間、私たちが絶望に陥りそうなときにも、神様は共におられ、私たちを支えていてくださるのです。
これから四旬節が始まっていきます。私たちはこの時を、イエス様の御声を聞きながら、山の上の栄光ではなく十字架の上におられるイエス様の御姿を見つつ、歩んでまいりたいと思います。