主と出会った帰り道
イザヤ書 60: 1 -6
エフェソの信徒への手紙 3: 1 – 12
マタイによる福音書 2: 1 – 12
明けましておめでとうございます。今年初めての主日礼拝であり、聖餐礼拝です。
今年もみ言葉に生かされながら信仰の歩みを進めてまいりたいと思います。よろしくお願いします。
世界にはいろいろな宗教があります。それぞれ特徴がありますが、一つの分類の仕方を考えると、自分自身の力や努力によって救いを勝ち取ることができると考える宗教とそうでないと考える信仰があります。多くは前者です。自分の努力、修行によって徳を高めることによって救いを得るのです。自力本願です。キリスト教では自己義認です。そうでないのは、神様の完全な意志、愛によって救いがもたらされる考えです。他力本願、信仰義認です。キリスト教も歴史的には自己義認でした。今でもそのような考えは強いのですが、宗教改革では、自己義認は否定され、救いは全く神の愛の意志によって与えられると考えるようになります。ルーテル教会は完全にこの考えです。
今でこそキリスト教は世界宗教の一つとして、世界に大きな影響力を持っています。しかし、聖書の時代、キリスト教のルーツであるユダヤ教は、パレスチナの小さな一国の中の宗教にすぎませんでした。しかし、彼らは聖書の神こそが唯一真実の神であることを固く信じ疑いませんでした。従って、神からの救いもユダヤの民だけにもたらされるのであり、他の国の人々が神の救いの対象となることなど及びもつきませんでした。今日に使徒書の日課でパウロが言うように、キリストの救いが異邦人にももたらされることは、ユダヤ人たちには隠されていたのです。しかし、本当にそうか。いえ、それはキリストがお誕生になったその時に、すでにこの事実が知らされていたのです。それが東方の博士たちの幼子キリストとの出会いです。
「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く。」イザヤの預言です。イザヤがこのように語ったとき、すでにそのように主の栄光が現われていたわけではありません。イザヤが続いて語るように、現実は「見よ、闇が地を覆い、暗黒が国々を包んでいる」のです。目の前には苦しく悲惨な現実しかないところで、預言者は主の救いを見ているのです。救い主とその救いを求めるということは、現実を見据えつつも、その向こうにある神様の救いを見出し、それを捉えようと求め続けることです。それは希望を持ち続けることでもあります。どんなに厳しい現実があろうとも、希望のないところには生きる力もわいてきません。
希望を持ち続けることが力になるのです。
さて、今日は顕現主日です。東方の占星術の博士たちが、救い主の誕生を告げる星の導きによって赤ちゃんイエスのところに導かれ、礼拝し、贈り物をささげたことを覚える日であり、救い主の到来と栄光が外国人にも示された日でもあります。
本来、神様の救いはイスラエルに与えられると約束されたものでした。しかし、人々はその預言を知っていながらも、目の前の暮らしと社会の安定を求めて、神様の救いを求めようとはしませんでした。博士たちは救い主の誕生ということで、当然のごとくヘロデ王の宮殿を訪ねます。しかし、彼らが宮殿に現われた時、ヘロデ王はもちろんのこと、取り巻きの人々すべてが驚き不安に思ったのです。ヘロデにとっては自分の身が危うくなるし、取り巻きの人々も政変ということで、自分の地位どころか追放、または粛清にあうかもしれなかったからです。もし彼らが真に救い主の到来を待ち望んでいたならば、むしろ喜ぶはずでした。しかし彼らは厄介なことが起こったと驚き怪しみ、あわてて救い主の到来の預言を調べるのです。それは東方の博士たちとは対照的な姿です。一方は、異国の古い言い伝え、文献を頼りに、星を観察し、救い主の誕生の兆候を待ち続けました。そしてそれを発見するとすぐに旅支度をし、その場所を突き止めようとしたのです。しかし、本来、救い主を待ち続けていたはずのユダヤ人たちは目の前の生活に安穏とし、そこにしがみつき、救い主の誕生を告げる知らせを厄介な出来事としか受け止めることが出来なかったのです。救いの預言に誠実でなかったのです。結果、み使いは博士たちだけに赤ちゃんイエスさまの居場所を教え、別の道を帰るように指示し、ユダヤの人々には救い主の誕生、救いの到来は隠されてしまったのです。
確かにイエスさまのお誕生とそのご生涯は存在します。十字架の出来事も神様の救いの出来事として起こりました。私たちはそのことを知っています。しかし、大切なことはそれを私のための出来事として受け止める信仰です。この信仰があるところでは、預言者が語ったまだ見ぬ救いを今、自分に起こったこととして受け止めることができるのです。ユダヤ人たちはそれができませんでした。すでに預言によって救いが語られていても心の目がそれを閉ざしていたのです。しかし信仰はまだ見えない救いを、今の出来事として感じることです。
困難な時代、困難な状況にあっても、神の救いを確信することが大切です。ヘブライ人への手紙 11 章1節に「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」とあります。元旦の礼拝の中で私は社会の状況を見れば見るほど憂鬱になると申し上げました。まさに時代はよくなるどころか悪くなっているよう見えます。しかし、たとえ目の前に辛い出来事があり、悲惨な場面が繰り広げられても、キリストによって神は確かに私たちに救いを与えられたことを確信するならば、私たちはこの世界に希望を持つことができるのです。
博士たちは星を見ながら救い主の誕生の知らせを待っていました。そして星の導きに従って救い主と出会うことが出来ました。私たちには星の代わりにみ言葉が与えられています。み言葉が救い主の誕生を知らせ、誕生だけでなく十字架の死と復活によってその救いが完成したことを知らせています。このみ言葉に聞いていくこと、それが、私たちが救い主と出会う方法であり、救いを自分のものとする手立てです。目の前に聖書があっても、救いを待つ心、救いを求める心がなければ、それは預言を知っていながら救い主の誕生を知ることができなかったユダヤ人たちと同じです。しかし救いを求め聖書にその手がかりを求めていくならば、み言葉は私たちを救い主のところに連れて行ってくれるのです。そして救い主に出会った後は新しい別の道、生き方を歩み始めるのです。新しい年も聖書を手掛かりとして、聖霊の導きにより、救いを今の私の出来事として受け止めて歩んでいきたいと思います。
