ヨセフは悩む
マタイによる福音書 2: 13~23
今週の福音書は、クリスマスを終えたすぐ次の主日だというのに、ヘロデ王による幼児虐殺という悲しい物語が書かれています。占星術の学者たちから「ユダヤの新しい王が生まれた」という知らせに対し、ヘロデは不安を覚えて、学者たちに生まれた子どものことを詳しく調べて報告するように命じます。自分を脅かす者を排除するためです。しかし、学者たちはイエス様を訪問した後ヘロデのところには寄らずに自分たちの国に帰っていきました。ヘロデはそのことに腹を立て、ベツレヘムとその周辺一帯の2歳以下の男の子を一人残らず殺させたのです。誰が対象となるイエス様なのかがわからない、ならば全員を殺してしまう。まさに虐殺です。ベツレヘムはエルサレムの郊外の小さな村でしたから、実際に殺された子どもの人数は数十人程度であったろうと言われていますが、ヘロデが排除しようと考えたイエス様とは何の関係もない子どもたちが大勢殺されたのです。非常に悲しい物語です。
私たちは、歴史の中で多くの虐殺が行われてきたことを知っています。聖書の中でも出エジプト記の最初の箇所で、エジプトに移住してきたユダヤ人の人数が多くなり過ぎたのに不安を覚え、エジプト王はユダヤ人の男の子が生まれたならば一人残らずナイル川に放り込んで殺すように命じた、という記事があります。第二次世界大戦でのナチスによるユダヤ人虐殺、ベトナム戦争での村に住むすべての人の虐殺、ガザで行われてきているパレスチナ人の虐殺など、どの時代においても人間は他の人間を無差別に殺すという虐殺を繰り返して来ました。虐殺の理由で多いものは、自分たちの存在が脅かされる可能性があるとき、その対象だけでなく可能性があるものすべてを排除するということです。ヘロデもナチスもベトナム戦争でも、そしてガザでも同じ理由で多くの人が殺されました。イスラエルは「ガザでハマスがかくまわれている」という理由で、何の関係もない市民が犠牲になっています。実に理不尽です。
このような虐殺が繰り返されるのは、人間の罪によるものなのか、それともこれも神様の計画の中なのか、考えるのも難しいことです。私は、人間自身が持つ罪によってこのような虐殺が繰り返されていると思いたいです。
今日の福音書で、ヘロデがユダヤ人の王として登場しました。ヘロデは聖書に書かれているように非常に猜疑心の強い王でした。ヘロデはイドマヤ出身で、正確にはユダヤ人ではありません。ローマ帝国に巧みに取り入ることによって、ユダヤの王の地位を手に入れることができました。ですからその地位は盤石とは言えないものでした。彼は自分の地位を守るために多くの人を陥れ、暗殺してきました。政敵は言うに及ばず、二人の義兄弟、義父、妻、そして死の数日前には息子の一人も暗殺するほどに残虐な王でした。ですから自分を脅かす王が生まれたと聞いたときに、無差別に2歳以下の男の子を殺させたということも想像に難くありません。
ヘロデ王が死んだ後、彼の3人の息子であるアルケラオ、アンティパス、フィリポによってユダヤは分割統治されました。アルケラオはエルサレムを含む地域の領主となりましたが、福音書に書かれているように父と同様に暴虐であったため、10年後に解任、追放され、この地域はローマの直轄領となりました。余談になりますが、イエス様が十字架にかかる前にヘロデの尋問を受けます。このヘロデは息子の一人であるアンティパスです。彼はガリラヤを含む地域の領主であったため、ガリラヤ出身であるイエス様の尋問を行ったのです。イエス様の誕生、十字架の両方に「ヘロデ」という名前が関わっていたというのは、不思議な気もします。
先週の説教にもありましたが、イエス様の父ヨセフは、聖書の中で非常に影が薄い存在です。登場する場面はイエス様の誕生から少年時代まで。母マリアは十字架の場面でも登場するのにさっさと退場してしまいます。マリアの言葉は聖書の中で何回か書かれていますが、ヨセフが語った言葉はひとつもありません。ルカによる福音書3: 23では「イエスはヨセフの子と思われていた」という書かれ方までしています。イエス様は聖霊によって身ごもったのですから、聖書の書き方は正しいのですが、あんまりな気もします。
そんなヨセフですが、彼は非常に家族思いの優しい人だったのではないかと思います。彼は、行動を起こす場面では悩み抜いた上で行動を起こしています。
婚約しているマリアの妊娠がわかり、ヨセフは密かに離縁をすることを考えました。婚約者が自分の子どもでない子を妊娠する、父親としては非常に悩ましいことでしょう。現代であれば、婚約解消の理由になって慰謝料をもらうような状況です。それでもヨセフは悩みながらも「密かに」縁を切ろうとしました。
エジプトに避難するとき、ヨセフは夜のうちに家族を連れて出発したと書かれています。準備もしっかりとせずにエジプトに向かう、ある意味難民となるわけです。生まれて間もない幼子、出産後で体調が万全ではない母親を連れて難民の生活を送るというのは、果たして大丈夫だろうかと悩んだことだと思います。
ユダヤに戻るときにも、イエス様が生まれたベツレヘムは父ヘロデ同様の暴虐なアルケラオが治めている。見つかったらあの時に見逃してしまった子どもだとして捕まって殺されてしまうかもしれない、と不安が大きかったでしょう。
ヨセフの行動は、どれも夢に現れた主の天使の言葉から行われています。自分一人で考え、自分一人で決断したものではありません。マリアを妻に迎えるとき、二人を連れてエジプトに逃れるとき、ヘロデが死んでユダヤに戻ってくるとき、ガリラヤの町ナザレに定住するとき、すべては夢のお告げを聞いて行動しています。「ヨセフは正しい人であった」と書かれていますので、彼は神様のことを強く信じる人であったでしょう。ヨセフの行動は神様の言葉に従っただけなのかもしれません。それでも行動を起こす前は彼自身悩み苦しんだと思います。そして常に神様に祈り、神様に相談をしていたのだと思います。そんなヨセフだからこそ、夢で神様の言葉を聞くとすぐに行動に移したのです。そしてその行動は、神様の子であるイエス様、妻であるマリアを真剣に守ろうとするものでした。
旧約聖書の預言者は、聖書の中で預言者としての召命を受けるくだりがあります。私と息子たちは、洗礼名として預言者の名前をいただいています。私はそれぞれの預言者が召命を受ける場面が好きです。例えば私の洗礼名であるエレミヤは、神様からこのように語りかけられます。「わたしはあなたを母の胎内に造る前からあなたを知っていた。」
私たちは、神様からの言葉を聞けているでしょうか。私自身は「これが神様からの言葉だ」というものをこれまで実感したことがありません。それは、私がヘロデたちのように、自分を守るために他の人々、関係のない人たちまで排除しようとする罪深い人間だからかもしれません。神様からの言葉は死ぬまで聞けることはないのかもしれません。それでも私は信じたいのです。いつか神様からの言葉が聞けるのだと。
それは、ヨセフが悩み抜いて神様に祈り、その言葉に従って神様の御子イエス様を守ったからです。イエス様は、罪深い私たちの罪をすべて背負って十字架にかかられました。それによって私たちのすべての罪は赦されたのです。イエス様を守るために神様に祈り、従ってきたヨセフを知っているからこそ、私たちも自分の行動に悩みつつ、神様に祈ることによって、神様の言葉を聞くことができるのだと思います。
今年の礼拝は今日が最後です。新しい年、自分たちの悩みを神様に祈り、神様からの言葉を聞き、神様の御心にかなう一年にしたいと思います。
