2025年10月26日 説教 鷲見和哉神学生

大胆に信頼する

ヨハネによる福音書 8: 31 – 36

本日の礼拝は宗教改革主日礼拝となっています。約 500 年前の 10 月 31 日、ドイツのヴィッテンベルクにある城教会の扉に、一枚の紙が張り出されました。この紙を張り出したのが当時無名の修道士であった、宗教改革者マルティン・ルターです。ルターは一般的には免罪符と呼ばれております、贖宥状に対して疑問を持ちました。この贖宥状の有効性を問うために、ルターは後に「95 カ条」と呼ばれる提題を城教会に張り出したのです。ここから、教会の歴史に決定的な影響を及ぼした、宗教改革が始まったのです。本日はそのことを覚えるための礼拝となっています。
ルターは宗教改革という荒波の中で、多くの言葉を残しました。有名なものだと、
「たとえ明日、世界が終わるとしても今日私はリンゴの木を植える」「われ、ここに立つ」といったものが挙げられます。「リンゴの木を植える」に関しては厳密にはルター本人が語った言葉ではないという説もあるようですが、それでもルターは大変多くの印象的な言葉を残しています。

さて、本日はルターが語った言葉の中でも特に印象的な、次の言葉に焦点を当てたいと思います。
「大胆に罪を犯しなさい。しかし、もっと大胆にキリストを信じ、喜びなさい。」大変インパクトのある言葉です。特に「大胆に罪を犯しなさい」という箇所は、キリスト教に触れたことのない人にとっては、犯罪教唆とも読み取れてしまうような恐ろしい言葉です。さらにこの言葉は、励ますことを目的として語られたというのです。ルターとともに宗教改革を担っていった人物の一人に、メランヒトンがいます。メランヒトンはルターの宗教改革に共鳴し、後にルター派の信仰を表明する「アウクスブルク信仰告白」を書きあげるなど、ルターにとってなくてはならない協力者でした。そんなメランヒトンが、ルターの留守中に、ルターに代わって改革運動の指揮をとらなければならない時期がありました。宗教改革の指揮を任せられるなど、通常では考えられない重圧です。メランヒトンは時に決断に迷うこともあったそうです。しかし、そんなメランヒトンを励ますために、ルターはこの言葉を手紙に書いて送ったというのです。なぜ、この言葉が励ましの言葉となるのでしょうか。

当時のカトリック教会では、救いには信仰と善行が必要であると考えられていました。信仰だけでなく善行、つまり愛の行いが必要であると考えられていたのです。
ルターが問題視した贖宥状も、善行の一つでした。当時には煉獄という考え方がありました。煉獄とは、いわば天国と地獄の間にあるような場所で、死んだ者はここで火によって罪を清められると考えられていました。そのような煉獄での苦しみから逃れるために購入するのが、贖宥状なのです。煉獄で苦しむ両親のためにお金を払うという行為は、まさに愛の行いだったのです。そしてこの当時の救いの理解を端的に表すと、それは階段を上っていくようなものでした。善い行いを通して一段一段、階段を上っていき、一番上に神がおられるというイメージです。信仰だけでなく善い行い、つまり己の努力によって階段を上っていき、神の恵みを獲得していくのだという理解が、当時のカトリック教会には存在していました。
修道士になってからのルターは、この階段を必死に上りました。当時の修道会では、祈りと働きを含めた大変厳しい生活を送ることが求められていました。ルターは模範的にこの生活を実行していきました。それどころか、時には周囲から心配されるほど徹底的に行っていたようです。ルターは神の御前で、己の力がどうしようもなく小さいものだと感じていました。しかしたとえ小さく弱い力であったとしても、何とかして神の恵みを獲得するしかありません。ルターは救いを得るために必死にこの階段を上り続けていたのです。しかしある日、ルターは気づかされました。
上った先、そこには誰もいなかったのです。振り返ってみると、階段の一番下、神の恵みを獲得するために努力し始めた、まさにスタート地点、そこにイエス様がおられたのです。これこそが、ルターの宗教改革の核心でした。神様は高いところから、私たち人間が努力をして、階段を上ってくるのを待っておられる方ではありません。そうではなく、ありのままの私たち、つまり罪にとらわれ、自分で自分を救うことのできない私たちのために、階段の一番下、私たちの足元にまで下りてきてくださる方なのです。私たち人間は 2000 年前も、500 年前のルターの時代にも、そして今を生きる私たちの時代においても、同じように罪に捕らわれています。しかし、そんな私たちのために、私たちが生きているこの世界に、神様は人間となってまで降りてきてくださったのです。この方こそ私たちの主、イエス・キリストです。そして罪に捕らわれている私たちを義、つまり良しとするために、イエス様は十字架と復活の出来事を通して、私たちに救いの道を開いてくださったのです。救いはそもそも、私たちが善い行いによって神の方へ上っていくというような、人間の側の働きかけではありません。救いは神の側から、私たちに向けての働きかけなのです。私たちに求められているのは、私たちを愛し、私たちのために行為してくださる神がおられるのだというこの恵みを、ただ信じて受け取ることだけなのです。
ルターはこの恵みの神に気づかされたのです。

ここで最初にお話しした、「大胆に罪を犯しなさい。しかし、もっと大胆にキリストを信じ、喜びなさい。」という言葉に立ち返りたいと思います。この言葉には、どのような意味が込められているのでしょうか。それは、「自分自身の力により頼んで歩んでみなさい。そうすれば、自分のうちに自分を救う力はないということがわかる。だからもっと大胆に私たちを救うことがお出来になる神、つまりイエス・キリストを信じ、喜びなさい。」ということなのです。「大胆に罪を犯す」とは、「自分自身の力により頼んで歩んでみる」ことなのです。ルターは実際、己の力で神の恵みを獲得しようと努力し、もがき続けていました。しかし己に救う力はないのだということ、その道の先に神はおられないのだということにルターは気づかされたです。
だからこそ己の力に目を向けるのではなく、神を信頼しなさいとルターは励ましているのです。
メランヒトンは改革運動を担うという、全く先行きの見えない状態に置かれていました。まさに一寸先は闇という状態です。己の小ささ、己の無力さに打ちのめされることもおそらくあったでしょう。そんなメランヒトンに対してルターは、己の力ではなく、私たちを救うことができる神を信頼しなさいと励ましているのです。そしてこれは、私たちも同じです。私たちも先の見えない状況に直面する時があります。自分ではどうすることもできない状況に出くわす時も、己の無力さに打ちのめされる時もあります。しかしそのような状況にあっても私たちは、己の力ではなく神様を信頼することができるのです。私たちを愛し、私たちの足元にまで下ってくださる神様を、大胆に信頼することができるのです。

本日の聖書箇所は、大変有名な箇所です。「真理はあなたたちを自由にする。」この真理こそ私たちの主イエス・キリストです。イエス・キリストが成し遂げてくださった十字架と復活のゆえに、私たちは自分自身を頼りにして、自分自身の力を信じて歩んでいくという生き方から、自由にされるのです。先の見えない中にあっても、私たちを救うことがおできになる方、私たちの足元に降りてきてくださる方を、大胆に信頼して歩んでいく。そのような新しい生き方へと、自由にされていくのです。