ある場所へ
ルカによる福音書 8: 26 – 39
礼拝では典礼色として白、赤、紫は、キリスト教の三大祝祭、クリスマス、イースター、ペンテコステの期間等、特別な時に用いられます。一方、今日の緑色は、特別ではないとき、です。緑は「日常」の象徴とも言えるかもしれません。「ハレとケ」というように「日常」は「祭り」の対になるものです。華々しい「祭り」に対し「日常」は盛り上がりに欠ける…けれど「日常」はとても大切なものです。私達の日常は、神によって導かれた場です。神の御言葉と出会った者は、癒やされ、そして日常の只中で、証するものとなる。本日の聖書はそのような出来事を語り、そしてまたそれは、私達自身の生き方でもあるのです。
イエス様とその一行は異邦人であるゲラサ人の住む地方で、悪霊に取り憑かれている男と出会います。そこで、イエス様はその悪霊に、男から出てゆくよう命じるとその者は「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。頼むから苦しめないでほしい。」と大声で叫ぶ。イエス様には敵わないことを良く知っていた悪霊どもは、近くの豚に住処を移したいと願い、イエス様はそれを許します。すると、悪霊はその人から出て、豚の中に入った。かくして、悪霊に取り憑かれていた人は、無事、元の状態に戻ることができた。この出来事で注目すべきは、悪霊にとりつかれていた人、イエス様によって癒やされた人、その人自身です。彼は、悪霊にとりつかれ、おかしくなっていた。衣服を纏うこともせず、人の住まない荒れ野へと逃げ出し、家に住むどころか、墓場を住まいとしていた。社会性を失っていた、日常を無くしていた、おおよそ人としての生き方を、失っていた。けれどそれは、イエス・キリストとの出会いによって一変します。イエス様は悪霊にでてゆくよう命じる。すると、男はたちまち、癒やされるのです。注目したいのは、ここからのやり取りです。イエス様が船で帰ろうとすると、悪霊を追い出してもらった彼は、イエス様に、お供したいとしきりに頼み込みます。ところがです。イエス様は、それを断るのです。イエス様は言います。「自分の家に帰りなさい。そして、神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい。」 これは拒絶ではありません。イエス様は、彼を、あるべき場所へと導いているのです。「自分の家に帰る」、それは言い換えるならば、「かつての日常に戻る」ということでもあります。悪霊に取り憑かれた結果失ってしまっていた日常を再び生きることも大切な生き方である。しかも、ただ以前の生き方を取り戻すだけではないのです。彼には一つ、使命が与えられていた。イエス様は言われました。「神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい。」 重要なのは、「神があなたになさったことを」というイエス様の言葉です。癒やしそのもの以上に「神の意思によって」なされたことが重要なのです。彼が経験したのは、自らに神の御業が働く、という出来事であった。そこから始まるのは、新しい日常です。神様と共に生き、神様を証する、そうした生き方へと、彼はイエス様によって導き入れられたのです。
新しい生き方。それは、福音を伝える生き方でもあります。彼の身に起きた出来事は、ただ彼一人の出来事に終わらないのです。もしもです。神様の愛が、ただ一度、この男においてのみ働くのであったならば、彼が自分の家に帰り、周囲の人々に自分に起きたことをことごとく語ったとして、それは単なる自慢話で終わってしまいます。もちろん、そのようなことをイエス様が命じるはずがありません。男が語って聞かせる「神の御業」、それは、それを聞かされた者にも働くものである、だからこそ、話して聞かせるのです。私に働いた神の愛は、たしかにあなたにも働くのだと、それを、彼は、日常の暮らしの中で証をしてゆくことになる。それは、福音宣教の一つのありかたです。神の愛と出会い、主の働きを経験した者は、福音を伝える者となってゆくのです。
そしてこれは、私達に与えられた生き方の一つでもあります。私達も時に思いがけない出来事によって、弱ってしまうことはある。けれども、そんな私達に、神様は働いてくださるのです。イエス様が一言命じれば、男から悪霊は取り去られた。私達にも神の御言葉が働く時、御業が、癒やしが、導きが、そこで与えられる。そして、私達もまた、神がなさってくださったことを私達の日常の只中で証する者となるのです。自分がこうして生きているのは神の愛によるのだと、そして、その神様はあなたにも働くのだと、私達は私達の生き方を通して、世の人々に示してゆくのです。
それまでの生き方を捨てて主に従う生き方、それが尊いものであることは確かです。十二使徒が弟子となった時、彼らは元の生活を捨てて、イエスに従う者となった。それは、特別な生き方です。ただしかし、私達皆がそうした生き方をすることが出来るかと問われれば、それは難しい。では、日常に生きることは特別な生き方より劣るのか。そうではないのです。あの悪霊から開放された男、その彼にイエス・キリストが与えたのは、日常の中で生きることでした。かつての暮らしの只中で、周囲の人々に自らの姿を通して神の愛を示す生き方。それが、彼に、あるべき場所として与えられたのです。それと同じように、主は私達のことも、私達のあるべき場所へと導いてくださっている、だからこそ今私達は、ここにいる。主の御言葉によって癒やされ、主の導きによって、私達は私達自身の日常を暮らす。そして、その中で、主によって生かされている、主に支えられている自分自身を通して、神の愛を世に証してゆく。私達の日常もまた、神様によって用いられる時、大きな恵みの御業へと変えられてゆくのです。