目で見る
ヨハネによる福音書 20: 19 – 31
私は子供のころから電車が好きで、今でも電車の先頭に乗って運転手が操作をしているのを見たり、前に広がる景色を眺めたりするのが好きです。運転手さんを見ていると、扉が閉まって発車OKのブザーが鳴ると、運転席からいろいろな箇所を指差して「ヨシ!」と言って、電車を発車させます。これは、出発前にチェックをしなければならないところをひとつひとつ目で見て問題ないことを確認する作業です。これは指差し呼称というもので、私が工場に勤めていた時も、作業現場の朝礼に出るとその最後に「〇〇ヨシ!、××ヨシ!、今日も一日安全で行こう、ヨシ!」とみんなで指差ししながら声を張り上げていたのを思い出します。
目が見えない、耳が聞こえない、鼻が効かない、手が動かない、足が不自由だなど、様々な障がいがあります。どの障がいを持っていてもつらいのですが、目が見えないというのはその中でもつらいと感じる人が多いのではないでしょうか。それは、目が受け取る情報がほかの器官と比べて非常に多いからだと思います。明るい・暗い、動いているもの・止まっているもの、色・模様・文字など、目は多くの情報を受け取ることができます。その情報によって人間は次の動作を決めていきます。ことわざにも「百聞は一見に如かず」というものがありますが、昔の人も耳よりも目から得られる情報のほうが重要だと考えていたのだと思います。
今日の福音書の主人公は、イエス様の弟子であるトマスです。トマスが登場するのは、今日の箇所ともう一か所くらいしかありませんが、今日の箇所だけでも聖書の登場人物として有名です。
トマス以外の弟子が集まっているところに復活したイエス様が現れます。その話を聞いたトマスは、イエス様が現れたことを信じないと言います。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」と言って、弟子たちがイエス様と会ったことを認めません。自分の目で確かめないと信じないと言います。
トマスは聖書のこの箇所によって「疑り深い弟子」という不名誉な呼ばれ方をしているという記事を読んだことがあります。最近「教皇選挙」という映画を見ました。数日前に実際のローマ教皇であるフランシスコ教皇が亡くなられたので、不思議な気もします。映画は、教皇が亡くなってから新しい教皇を決めるための教皇選挙を描いたものですが、その主人公の名前がトマスでした。教皇選挙を管理する責任者として、候補者に後ろ暗い過去がないかを疑う姿が描かれます。もしかするとこの主人公の名前は弟子のトマスから採られているのかもしれません。
目で見ないと信じられないという言動で「疑り深い」というレッテルを貼られてしまったトマスですが、他の弟子たちも同じようなもので、決してトマスだけを責めることはできません。先週の福音書もそうでした。女性たちはイエス様の墓が空になっているのを見、天使から復活を知らされて弟子たちに伝えますが、弟子たちはその話をたわごととして取り合いませんでした。ペトロは墓まで行きますが、墓が空であることを確認できただけでした。ペトロは、復活の話を聞いたけれども、墓に行って自分の目で確かめないと信じられないと考えたのです。
自分の目で確かめないと信じられない、というのは多くの人が思うところです。私も同じようなものです。人から何かすごいことを聞いても、「ホント?じゃあ証拠を見せてよ」と話だけでなくこの目で確かめたくなります。
イエス様はそんなトマスの前にもついに現れます。しかもトマスが言ったことを知っていると言わんばかりに「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。」と言われます。トマスはイエス様の傷に触ることなく、イエス様が復活されたことを認めました。イエス様の姿を一目見ただけで信じたのです。まさに「百聞は一見に如かず」です。
ところが、そんなトマスにイエス様は、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」と言われます。非常に厳しい言葉です。
人間にとって、見て確かめるということは非常に重要なことだとお話ししました。しかし人間の目というのはどれほど信用できるものなのでしょうか。説教の最初に指差し呼称の話をしましたが、これは確認すべきところを見ながら指で指し示し、確認したことを声に出すという動作です。目で見るだけでなく、体を動かし、さらに言葉でも言わないと確認したことにはならないよ、というものです。目で確認しただけでは必ず見落としがあるんだよと教えるものです。確かにチラッと見ただけでは見落としがあるかもしれません。トマスにしても、イエス様をしっかりと見て、傷跡を触らなければ信じられないよと言いました。しかししっかりと見たとしても見落としは出てきます。書類の内容を確認するときに、一人だけでなく他の人ともダブルチェックしなさいと言われます。一人の目で見ただけでは書類にある間違いを見つけることができないのです。
聖書の中にも、見えていてもわからないということが書かれている箇所があります。ルカによる福音書24章に書かれている、やはりイエス様が復活してすぐの出来事です。イエスの弟子が二人、エマオに向かう道でイエス様と出会います。エマオに到着するまでの数時間、イエス様を何度も見たはずなのにイエス様だとはわかりません。食事の席でイエス様がパンを裂く時に、やっとこれまで一緒にいたのがイエス様だとわかるのです。目で確認することは、100パーセントの信頼性があるものではないことがわかります。それでも人間は「見て確かめる」ことを大事にします。
イエス様は「見ないのに信じる人は、幸いである。」と厳しいことをトマスに言われます。しかし考えてみましょう。トマスをはじめとするイエス様の弟子たちは、イエス様とともに生き、イエス様と行動を共にし、復活したイエス様の姿を見て伝道を始めました。一方、私たちはイエス様が生きていた時代から2000年もたった世界で生活しています。黙示録を書いたヨハネのように、幻視でイエス様を見たという人はいるのかもしれませんが、ここに集まっている皆さんでイエス様を見たことがあるという人はいないと思います。私もイエス様を見たことはありません。イエス様の傷跡に触ったこともありません。イエス様を見るのは本の挿絵か絵画の中だけです。けれども私たちは復活されたイエス様を信じています。イエス様を見たことがないのにイエス様を信じている私たちを、イエス様は「幸いだ」と言ってくださるのです。私たちはなんと幸いなのでしょうか。福音書のこの言葉は、イエス様と異なる時代に生きる人たちに対するイエス様からのメッセージなのではないかと、説教の準備をしながら何度も何度もこの日課を読んで感じました。
以前の説教で、私はサン・テグジュベリの「星の王子様」をご紹介したことがあります。小さな星から地球にやってきた王子様が経験したことが、いろいろな風刺を交えながら書かれています。地球に着いて最初に出会った生き物であるキツネが王子様に「大切なものは目に見えないんだよ」と教えてくれた言葉が、私は大好きです。王子様が地球から去ってしまった後、王子様と出会った主人公は満天の星空を見るのが好きになります。あの星の中のどこかに王子様がいて、王子様が笑う姿を思い浮かべると、星のすべてが鈴のように鳴り響くように感じるというのです。イエス様は私たちの目には見えません。しかし私たちにとってイエス様は大切な方です。そんなイエス様は、私たちを「幸い」と呼び、「あなたがたに平和があるように」と語りかけてくださいます。礼拝に出席し、イエス様を思い起こすと空のすべての星が鈴のように鳴り響く、こんな素敵な毎日を送りたいと思います。