十字架に向かって歩む
ルカによる福音書 13: 31 – 35
イエス様が活動されていた紀元30年ごろは、エルサレム神殿もほぼ完成し、弟子たちもその豪華絢爛、勇壮さに感嘆の声を上げるほどになっていました。また律法とそれに付随する多くの文書も整っていました。つまりユダヤ教の最盛期だったといっていいと思います。当然そこでは祭司や律法学者、律法を忠実に守ろうとするファリサイ派の人々の力も隆盛を極めていたと思います。そんなところにイエス様が現れ、律法の解釈に異を唱え、人々がそこに注目したのですから、当時の宗教指導者たちは自分たちの立場や権力が脅かされるわけですから、それを許すことができず、イエス様を殺そうとまでするのです。イエス様は律法を否定しようとしておられたのではありません。律法の一点一画もなくなることはないと言っておられました。しかし宗教指導者の律法の精神からかけ離れた教えや行いを厳しく批判されていたのです。
宗教指導者たちのかたくなな態度から見ると、当然、福音書に現れるイエス様の言葉の厳しさ鋭さも増していたことがわかります。ですから私たちも当然当時の宗教指導者とイエス様は真っ向勝負の対立関係にあったと考えます。しかし律法学者やファリサイ派の人々のすべてがそうであったとは思われません。時々福音書にも表れますが、むしろ純粋にイエス様の言葉やその権威を尊重する人々もいたと思います。今日の福音書の冒頭に現れるファリサイ派の人々もそのような人々だったと思います。彼らはイエス様のところに来て、ヘロデがイエス様を殺そうとしているから逃げてくださいと助言するのです。このヘロデは、クリスマスのときに登場するヘロデ大王の子どもで、三分割された領土の中でユダヤやガリラヤを統治していたヘロデ・アグリッパです。彼は最終的にはイエス様を十字架にかけるという裁定を下すのですが、頭からイエス様を殺そうとしていたわけではありません。民衆がイエス様に寄せる評判が気になり近づこうとします。しかしそれは信仰心というより好奇心でしたし、権力を守ろうとする保身からでした。最後にはイエス様への民衆の評判が変わり、自分の身の安全のためにイエス様を十字架にかけてしまいます。
さまざまな攻撃にイエス様の心の中にもいろいろな思いが起こったと思います。
いらだち、恐れ、焦り、怒りなど人として当然起こる気持ちです。「預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。見よ、お前たちの家は見捨てられる。」と言われる厳しい言葉もそのように響きます。イスラエルは歴史的に列強の国々に囲まれていました。エジプト、アッシリア、バビロニア、ペルシャなど。その時代時代の王は、自国が生き延びるために、周辺の国にこびては、侵略されてきたのです。そこに多くの預言者たちが神様の使いとして現れ、罪を犯し神様から離れ、周辺の国々のこの世の権力、武力に依存したイスラエルに、神様に立ち戻るように言い続けたのです。しかしイスラエルはことごとくそれに耳を貸さなかったのです。最終的にはバビロン捕囚という民族的な危機にあい、その捕囚の場所で律法の問い直しが行われ、再編が始まりました。しかしその後は、その律法を誤った方向に導き、宗教的権威主義、権力主義に走っていったのです。これに対してイエス様は厳しく批判されたのです。
しかしイエス様の批判は感情的な思いから来たのではありませんでした。なぜならイエス様にはご自分に与えられた使命がはっきりとわかっていたからです。イエス様は、神様の救い、それもまずはイスラエルを救うという使命を大事に考えておられたのです。今日のイエス様の言葉は怒りや苛立ち、さばきではなく、嘆きでした。「イスラエルよ、イスラエルよ」との呼びかけは、イスラエルを愛おしむ心で満ちていました。裁くのではなく攻撃するのでもなく、救いたいとの思い、それが実現できない慚愧の念で満ちていたのです。
しかしイエス様はその救いを別の形で実現されます。それが十字架にかかるということです。罪を犯した者は自らその罪をゆるすことはできません。それができるのは神様だけです。イエス様が十字架にかかるということは、神様自ら十字架にかかることによってその罪を贖い、ゆるしてくださるのです。これはある意味奇想天外な出来事です。なぜなら神様は罪を犯し者を捨て置くことができたからです。しかし神様はそうはされず、罪を犯した者をゆるして再び受け入れてくださるのです。
私たちはイエス様の十字架によって罪ゆるされた者です。神様の絶対的なゆるしがあるのですが、それ以上のものを求める必要はないのですが、残念ながら罪そのものがなくなったわけではありません。私たちの心には神様を神様と思わず、忘れ、離れようとする罪は依然とあります。しかしもはやその罪によって苦しむことはないのです。私たちのこれからの歩みは、罪ゆるされた者としてどう生きていくかです。イエス様は私たちに愛を示してくださいました。私たちには素晴らしい手本があるのです。私たちはそれに倣って歩むだけです。
四旬節は十字架の歩みを振り返る時です。それは私たちの罪の悔い改めの日々でもあります。そして救われた事実をたどる時でもあるのです。