LOST
ルカによる福音書 2: 41 – 52
私達は今、主の誕生を喜び祝う、クリスマスの時をまもっています。しかし、実のところ私の心は今、「生まれた喜び」ではなくその真逆、「失った悲しみ」に覆われています。11月末、久留米教会の信徒さんの訃報が届きました。思えば、昨年祖母を、また四年前に母を天に送り出したのも、この時期でした。そして気づくと、私はすっかり悲しみと喪失感の虜となり、心身ともに体調を崩してしまいました。しかし、そんな私の心の中に一つ、灯火のような光がありました。それは、今日この説教を依頼されていた、ということです。そういうと責任感のように聞こえますが、そうではなく、実はちょっと楽しみなくらいでした。説教とは本質的には、私が、ではなくて、神様が、行う出来事だからです。もし私が語ることがボロボロでも、その出来事すら神様が用いて、神様は御業を成し遂げてくださるのです。
それはちょうど、ベツレヘムで起きたあの馬小屋の出来事に似ています。綺麗な場所を用意することが出来ず馬小屋に泊まることとなった。マリアとヨセフの視点から見ればもう、「取り返しのつかない失敗」です。ところがそこに、羊飼いたちがやってきて、救い主との出会いを大喜びし、神様を賛美して帰っていきます。馬小屋は、羊飼い達の日常そのものの象徴でした。だからこそ羊飼い達は、心のそこから、「自分たちのところに、主がお生まれになった」と感じることが出来た。マリアとヨセフからすれば「失敗したからそうなった」馬小屋でしたが、そこに神様が働く時、「羊飼い達に救い主の到来を実感させる」馬小屋になった。失敗が、恵みの出来事に用いられた。
これと同じことが、「説教」というその場にも働くのです。そこに神様が働く時、たとえ私が失敗しても、恵みの出来事になってゆくのです。それを知っているからこそ、12 月前半、ボロボロだった私は、しかしそんな私を用いて神様は一体何を示そうとしているのだろうと、ワクワクするような気持ちがあったのです。
そんなボロボロな私がボロボロな状態のまま説教準備をはじめ、最初にしたのが先程お読み頂いた福音書の箇所を読むことでした。普段の私でしたら少年イエス様に目を向けていたことでしょう。しかし、「失った悲しみ」に囚われた私に響いてきたのは、同じように「失った悲しみ」を抱くマリアの姿でした。今日の箇所は、心に痛みを抱えたマリアによって語られたものである、そう、響いてきたのです。
お生まれになり、成長してゆくイエス様を常に見守ってきたのは、母マリアです。
51 節にあるように、「母はこれらのことをすべて心に納めていた。」 問題は、それをいつ語ったのかです。おそらく、十字架の後なのです。今日の少し前の箇所、シメオンの讃歌の直後、2章 34 節・35 節にこのようにあります。「シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。『御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。 ――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。』」 この「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます」という言葉、これが何を表しているかといえば、十字架の出来事に他なりません。そして事実、マリアは眼の前で我が子イエスが殺され、心が剣で刺し貫かれた…。そして、これらの出来事を語るマリアのかたわらに、イエス様の姿は無いのです。勿論、復活の出来事はありました。しかし、イエス様が天に昇られた後は、その姿を見ることは出来ず、言葉を交わすことも出来ない。「失ってしまった」、そんな気持ちは強かったはずです。「剣で心を刺し貫かれる」、それは、死んで蘇るまでの 3 日間だけのことではないのです。マリアが生きる限り、剣で貫かれた心の傷は、消えはしないのです。私の父はその母である祖母よりも 15 年ほど早く天に召されましたが、熱心なクリスチャンであった祖母も、父の死については「何年経っても悲しい気持ちが消えることはない」と語っていました。自分の子を失う大きな悲しみを抱きながらマリアが語る、「幼いイエス様を見失った出来事」。これは単なる昔話ではないのです。今自分が経験している「十字架でイエスを失った悲しみ」と、昔あった「幼子イエスを見失った話」、この二つの出来事を、マリアは心の中で共鳴させている。「失った悲しみ」の中で「見失った」ことを語るマリア。それは、なんとも物悲しい姿です。しかし。マリアはそこで「悲しみ」だけで終わらせません。「見失った」出来事は「見つけ出した」出来事でもあります。あの時は、見失ったけれども、来た道を帰ってみれば、神殿にイエス様いた。ほっとして思わず叱ったら、平然と「なぜ捜すのです、わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」と、心を騒がせる必要は無いのだと言われた。見失った出来事は、失っていなかった出来事だった。そして、十字架後のマリアは、今も同じだと、あのときと同じようにイエスと再び再会出来る、だから心を騒がせる必要はないのだ、と、そう自分に言い聞かせるのです。
そして、マリアが思い巡らす神殿でのかつての出来事は、それ自体、実に象徴的なものです。「来た道を辿って戻ってみる」。希望を見失った時は、マリアと同じように、過去に思いを巡らすのです。神殿の出来事はどうだったか。見失っても、失っていない、惑うことはない、それを教えられた。ベツレヘムの出来事はどうだったか。馬小屋しか用意出来なかったのに、神様はそれを恵みの出来事にしてくださった。そして、過去に働いた主は、同じように、今も働きかけてくださっているはずだ。きっと、マリアはそう思ったことでしょう。そして、事実、2000 年後の私達は知っています。そんな心を痛めるマリア、そのマリア自身も、やはり神様の恵みの御業に用いられています。マリアの言葉は聖書に記され、それから 2000 年もの間、人々の、私達のことを励まし続けた。同じように、私達の弱さも失敗も、しかしたしかに恵みとして主は用いてくださるのです。
不安に囚われた時、心に痛みを抱えた時、希望など無いように思える時、私達は来た道をたどり、歴史を振り返れば良いのです。そこでは確かに、私達に働く神の姿を見出すことが出来ます。主は、馬小屋で、私達の為に生まれてくださった。私達の為に、確かに、十字架で命を捧げてくださった。人々がたとえ失敗しようとも、主はいつもそれを恵みの出来事に変えてくださった。それは 2000 年前の出来事だけではなくて、そこから主と共に歩んできた 2000 年間の歴史の中でもそうです。私達が出会った兄弟姉妹の中でもそうです。そして、私達においても、そうなのです。神様は私達に働き、励まし、そして私達の歩みそのものを、恵みとして用いてくださる。だからこそ私達は、弱かろうと、悲しみに囚われていようと、絶望することはないのです。いつも、希望を持つことが出来るのです。私達はもう、主を失うことはない。2000 年前のクリスマス、主の誕生から始まったその恵みは、歴史の中で、そして今も、確かに私達とともにあり、これから先も、いつも人々と共にいて、守り導いてくださるのです。