2024年12月15日 説教 松岡俊一郎牧師

クリスマスの備え

ルカによる福音書 3: 7 – 18

バプテスマのヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯で、人々に罪のゆるしを得させるために悔い改めを説き洗礼を授けていました。洗礼者ヨハネは、ご存知のようにイエス様の母マリアの親戚であるエリザベトから、イエス様のお誕生より半年ほど先に生まれました。その後の成長の過程は不明ですが、イエス様が公けの伝道の生涯を始められるころには、ヨルダン川のほとりで人々に洗礼を授けていました。その姿は、らくだの毛衣を着、腰に皮の帯を締め、イナゴと野蜜とを食べて、それは古い預言者の姿そのものでした。彼は人々に「悔い改めよ、天の国は近づいた」と説いていました。今日の福音書では、冒頭から大変厳しい言葉を投げかけます。ヨハネは人々に対して、「マムシの子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、誰が教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでもアブラハムの子たちを作り出すことがおできになる」と言ったのです。

人々は、この厳し言葉にひるむどころか、むしろ宗教的な求道心を掻き立てられます。人は不思議なもので、普段は褒められたり、自分を肯定されるなど心地よい甘い言葉を好むのですが、深く悩んだ時や何かを求める時にはかえって厳しい言葉に惹かれるのです。民衆は答えます。「では、わたしたちはどうすればよいのですか。」これに対してヨハネは「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてあげなさい」と言いました。この言葉に人々はがっかりしたかもしれません。もっと宗教的に高尚な教えを聞きたかったに違いないからです。しかしヨハネは信仰者としてごくありふれたこと、助け合うことを勧めているのです。この言葉はルカによる福音書6章27節以下のイエス様の山上の説教の言葉とよく似ています。ただヨハネの言葉は律法を正しく守ることを求めているように思います。イエス様の場合は、それ以上のことを求められますから、ヨハネの言葉よりもさらに深め徹底しています。いずれにしても二人は同じ流れにあると言っていいでしょう。

一般の人々だけではありません。罪びととされた徴税人も洗礼を受けるために「わたしたちはどうずればよいですか」と問います。当時の徴税人は、ユダヤ人でありながらローマ帝国に雇われ、通行税など規定以上の金額を取り立て、私腹を肥やしていたのです。従って、ユダヤ人にとっては裏切り者、売国奴と考えられ、罪びととされていたのです。この徴税人たちに対して、「規定以上のものは取り立てるな」と言われます。この言葉は徴税人ザアカイの言葉からも聞くことが出来ました。
徴税人ザアカイは、イエス様を一目見ようとしますが、群衆に阻まれてみることが出来ません。人々から嫌われて入れてもらえなかったのでしょう。そこで彼は木の上に登ります。そんなザアカイに対してイエス様は、「今日私はあなたの家に泊まる」と言われ、ザアカイの家に行かれるのです。これに感動したザアカイは、「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだましとっていたら、それを四倍にして返します」と言うのです。

さらに兵士たちもヨハネに問います。「このわたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねます。「このわたしたち」という言い方、これは兵士たちも自分たちは罪びととされていることを自覚しているのです。これに対してヨハネは「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」というのです。これも当たり前のことです。特別に宗教的なことではありません。

このようにバプテスマのヨハネは、当たり前のこと、人々の日常生活の中でのことを勧めるのです。私たちの求道的な欲求は、なにがしかの厳しさを求めます。修行、鍛錬、潔癖など特別なものを求めます。それは私たちに厳しさによって何かを得るという欲を満たします。ファリサイ派もサドカイ派も宗教的に厳格なグループでした。彼らも洗礼を受けるためにバプテスマのヨハネのところ来ますが、彼らにとっての悔い改めの洗礼は、彼らがこれまで持ち続けてきた信仰の伝統と習慣に一つを加えることでしかありませんでした。ファリサイ派についていえば、彼らにとって神の救いは自分たちの信仰的敬虔さ、彼ら自身の努力の積み重ねによって実現するのであって、ヨハネの洗礼を求めたのもそれに一つを加えることに過ぎなかったのです。しかしヨハネが考える悔い改めは、徳を積むものでも人の欲求を満たすものではありません。特別な何かではなく、むしろ自分を捨てることです。自分の生活、生き方を根本的に変えることです。それは線路で言うならば、線路のポイントで脇の線路に切り替わるのではなく、日常生活は変わらないままで、全くこれまでとは違う線路、生き方に移るのです。そこでは当然ものの価値観も変わり、生活もおのずと変わってくるのです。

しかし私たちは、私たち自身の力では、自分の心、生き方を変えることがそう簡単にはできません。あの富める青年がイエス様に「永遠の命を得るためにはどうしたらよいでしょうか」と尋ねた時、イエス様は「持てる財産を全て施しなさい」と言われたことを聞いて、その場から静かに去って行った姿と私たちの姿が二重写しになります。

そのような私たちに洗礼者ヨハネは、「わたしよりも優れた方が、後から来られる。
わたしは、かがんでもその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊でお授けになる」と言います。悔い改めによる救いを得ることが出来ない私たちに、真の救い主イエス・キリストが与えられることを教えるのです。救いは私たちが自分の力で手に入れるのではなく、イエス様によって与えられます。私たちは今、イエス様のお誕生という福音を前にした日々を送っています。そのイエス様は十字架の道を歩まれ、その十字架によって私たちに救いをもたらされました。聖書をたどると御子のお誕生は、決して華やかなものではありません。むしろ私たちは十字架の主が、私たちを救うために人の姿をとってお生まれになったことを心に留めたいと思います。