子どものように神の国を受け入れる
マルコによる福音書 10: 2 – 16
新約聖書の福音書には、イエス様がユダヤ人たち庶民に受け入れられた様子が描かれていますが、一方で権力者たちはとしばしば衝突されたことが記されています。
しかし指導者たちが最初から悪意を持っていたわけではありません。彼らは律法を守ることによって神様の前にふさわしい人間となることを望んでいました。そのためにより律法を厳格に守っていましたし、より厳密に守るためにたくさんの細則を作って正しく守ろうとしたのです。しかし、規則的なものは、一旦細則をつくるとそれに縛られます。そして、本文となるものの精神はやがて忘れられ、細則を守ることだけに注意がはらわれるようになります。現代の法律でもそのような面がありますが、イエス様の時代のユダヤ教はその傾向を強く持っていました。なかでも律法学者やファリサイ派の人々は特に厳格に守っていました。しかし、イエス様はしばしば細則に自由な姿勢をとられていて、教えの言葉はあたかも律法を守る必要がないかのような誤解を与えていたのかもしれません。もちろんイエス様は「律法の文字の一点一画まで消えることはない」と言われていますのでそうでないことは明らかです。しかし、そのようなイエス様が民衆の評判を集めていたことに、律法学者やファリサイ派の人々は苦々しく思っていて、イエス様の言葉尻を捕えて糾弾する機会を狙っていたのです。
今日の日課でも民衆に交じってファリサイ派の人々がやってきます。そして「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねます。もしイエス様が「離縁することは律法に適っていない」とイエス様が答えようものなら、律法を知らないと糾弾するつもりだったのでしょう。ところが、イエス様は彼らの口車に乗らず逆に「モーセはあなたたちに何と命じたか」と質問されます。ファリサイ派の人々は律法の専門家ですから、つい「モーセは、離縁状を書いて離婚することを許しました。」としたり顔で答えてしまうのです。申命記の24章の言葉です。そこでイエス様は、律法の言葉を否定するのではなく、「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。」と言われます。そして本来は、律法が天地創造で記したように「神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせて下さったものを、人は離してはならない。」と言われたのです。当時は男性中心の社会でした。離婚にしても男性の側から、妻が不貞を犯した場合、気に入らない場合、離縁状を突き付けたのです。イエス様はこのような考え方、習慣から女性を守られたと考えていいと思います。13節の言葉も、男性にも女性同様に、互いに誠実をつくすことを求めておられるのです。
しかし、ここで私たちが、離婚が許されるかそうでないかという点に必要以上に注目してしまうと、それはファリサイ派の人々の議論の延長線上にいることになります。そうではなく、むしろイエス様が人の創造について書かれているように、なぜ結婚を定められたのか、その根底に人の創造があり、私たち人の本来あるべき姿に注目すべきだと思います。それは、人が夫婦や親子などの基本的な関係の中に生き、そこから多くのそして広い社会の人間関係の中に生きる存在だということです。
それにしても、現代ほどこの家族関係、親子関係が崩れてしまっている時代はかつてなかったのではないでしょうか。大家族から核家族になり家族の規模は大変小さくなりました。単身赴任が常態化して家族が離れ離れに暮らすことも当たり前になっています。子どもは塾や部活、アルバイトで帰りが遅く、夕食を一緒に取ることが難しくなっています。また結婚そのものの意味も薄れ、結婚しないカップルが増えていますし、しても離婚するケースが大変増えています。高齢化が進み介護を必要とする親がいてもそれぞれの事情で難しさが増しています。それだけでなく、子どもが親に乱暴を振るい殺害に至る事件、親が子供を虐待し殺害する事件など毎日のように報じられています。時代の危機的状況を感じます。
このような状況にある私たちにイエス様は、神様の本来のみ心に立ち返るように求められます。人は神様によって創造されました。そこには神様の意志が働いています。男と女に創造され、その二人を結びあわされ新たな家族として生まれさせることも神様の意志でした。「人が独りでいるのはよくない」と、人は関係の中で生きるものであることをお示しになりました。関係があるからこそ人は弱くなった時に強くなることが出来るし、悲しむ時に慰めを受けることが出来ます。確かに傷つけあう事もありますが、苦しむ時に力を与えられるし、喜びや楽しみを共有し倍増させることが出来るのです。すべて関係があるからこそです。
この深い神の配慮と意志が、夫婦を生みだし、家族を生みだしたのです。ところが現代は、まさに人がひとりでしか生きられない状況があちらこちらに生まれているのです。ひとり暮らしの人が増えています。だれにもみとられずにいのちを終えられる方がいます。無縁社会とか孤族という言葉が生まれています。
聖書が考える関係の基礎は夫婦であり、親子です。この関係が崩れる時は人の結びつきそのものが崩れるのですから、社会の崩壊でもあるのです。この社会の流れを食い止めることが出来るのでしょうか。もし、夫婦の関係、親子の関係が崩れていくことを食い止めることが出来ないならば、新たな関係を本気で考えなければならないと思います。そこで私たちがたどり着くものは信仰によって結びあわされた関係、神の家族とされた関係です。今日の日課にはもう一つのエピソードが書かれています。人々がイエス様の祝福をいただくために子どもを連れてきました。しかし弟子たちは、その人々を叱ります。イエス様を煩わせたくないとの思いだったのでしょう。当時は、子どもは半人前でしかないと考えられていました。なにしろ律法をきちっと守れることが大人としての条件でしたので、子どもや安息日を守れない人は、一人前には扱われなかったのです。しかし、イエス様はそれを見て憤り弟子たちに言われました。「子どもたちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子どもの様に神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」このイエス様の憤りは大変強いものでした。それだけこの後にくる言葉をイエス様は強く思っておられたのです。神の国に入ろうと思うならば子どものようになりなさいと言われるのです。子どもと大人の違いはなんでしょうか。それはまず素直さです。人は成長するにつれて様々な知恵がつき、守りの気持ちも、見栄や欲も深くなっていきます。疑い深くなります。それらは神様を信じることとは逆の方向です。むしろ、己を捨て、己に頼らないで素直に神様を受け入れることこそが神様の支配を受け入れることにほかなりません。神様の言葉を素直に聞き入れ従う、これこそが私たちに求められていることです。