2024年9月15日 説教 松岡俊一郎牧師

生ける神、キリスト

マルコによる福音書 8: 27 – 38

今日の福音書を見てみますと、イエス様はフィリポ・カイサリア地方に行かれました。フィリポ・カイサリアは、ヘロデ大王の息子のひとりであったフィリポが、ローマ皇帝に敬意を表すためにカイサリアと名付けたところです。もう一か所地中海沿岸にカイサリアという町がありましたので、フィリポは自分の名前を合わせつけて「フィリポ・カイサリア」としたのです。ここはガリラヤ湖よりももっと北にあり、ヘルモン山の伏流水がわき出る大変美しいところです。そこには異教の神パンという名の豊穣の神が祭られていました。さらにその脇にはローマ皇帝を神として、皇帝の像が祭られていました。いろいろな神が祀られているそのような場所で、イエス様は弟子達に「人々は、私のことを何者だと言っているか」とお尋ねになったのです。彼らは「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。他に、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」と答えました。すべて預言者ですから、一般民衆はイエス様を預言者として理解していたことが分かります。イエス様は「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」とお尋ねになりました。いろいろな偶像が祭られていた場所です。この質問が一番大切で、弟子達の信仰の核心を突く質問でした。相手を誰というか、それは何と呼ばれているかを問うだけではなく、二人の関係を問う問いでした。ペテロにとってイエス様は誰か。それは相手を問う問いであると同時に、答えるペテロ自身を問う問いでもありました。イエス様の前で自分は何者か。その自分がイエス様をどのように受け止めているかが問われるのです。このことは後でもう一度触れます。

この問いに対してペトロが「あなたは、メシアです」と答えました。マタイ福音書では「あなたはメシア、神の子です」と言い、ルカ福音書では「神からのメシアです」と答えています。これは無理解と勘違いに終始していた弟子達としては百点満点の答えでした。しかし、言葉としては百点だったのですが、ペトロは自分が言ったその言葉が持っている意味は理解していませんでした。理解していなかったというよりは、誤解していたのです。
民衆はイエス様のことを預言者と受け取っていましたが、それはただの預言者ではありません。自分たちにふりかかっている弾圧や差別、貧困からくるあらゆる生活の困窮を解放してくれる改革者としてのヒーローを期待していたのです。ペトロもそのように理解していたふしがあります。それを悟られたイエスさまは、ご自分がこの後、長老、祭司長、律法学者からに捕らえられ殺され、三日の後に復活することになっている、と受難の予告をされたのです。すると、ペトロはイエス様を脇へお連れして、いさめ始めます。イエス様を注意するのですから、ペトロはよっぽど思いつめたのでしょう。マタイ福音書では、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と言っています。つまり、イエス様が捕らえられて殺されるなど、イエス様をヒーローとして考えていたペトロには考えられなかったし、あってはならなかったのです。これに対して、イエス様は「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と叱責されます。ペトロが、救い主としての使命に生きようとされるイエス様を理解せず、自分のイメージでイエス様を捉え、そのイメージに縛りつけようとしていることへの叱責でした。
十字架の出来事は、神様の人間への愛の究極の出来事です。これを抜きにしては、私たちの救いは勿論、私たち人と神様との関係はなくなってしまいます。この十字架の救いこそが私たちに必要であり、この十字架の前で私たちはすべてを受け入れることしかないのです。

イエス様を誰というかの問い、そしてそれを答える私は何者かという問いにもう一度戻りたいと思います。イエス様を信じるという時、信じる私が問われています。
自分はどんな人間か、どんな生き方をしてきたか、またこれからどのように歩もうとしているか、神様の前に立つとき、様々な問いが自分に降りかかってくるのです。もちろんこの問いにすぐに答えられる人は少ないでしょう。振り返り、思い巡らし、葛藤し、落ち込み、迷いながら自分を発見するのです。そしてそこからイエス様との関係が導き出されるのです。そこからイエス様の十字架の真実が見えてくるのです。この自分を問うことなしには、十字架は見えてきません。十字架があなたの罪の赦しのための十字架だからなおさらのこと自分を見つめる必要があるのです。立派な答えをしたペテロでしたが、まだそこには到達していませんでした。だからこそイエス様の十字架を否定しようとしたのです。 イエス様は弟子達だけでなく、群衆に対しても言われました。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。神に背いたこの罪深い時代に、私と私の言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来る時に、その者を恥じる。」と言われました。
ここにはイエス様を信じ従う者への覚悟が語られています。イエス様に従うとは、自分たちが思い描くような、ヒーローの力にあやかってはしゃぐようなものではありません。むしろ一人一人の生活にある重荷をしっかり荷なわなければならないのです。ここには初代教会の抱えていた厳しい宗教事情とキリスト者への励ましが込められています。しかし今の私たちにとっても、自分の生活の課題を負って行かなければならないことには変わりがありません。イエス様を信じればそれが簡単になくなってしまうとか、解決するとか、短絡的に考えることはできません。私たちの生活は依然として変わらず存在し、課題も残るのです。しかし、ただ一つ言えることは、その私たちの負うべき十字架をイエス様が究極のところで負ってくださっているということです。私たちがただ一人で負っているのではない。イエス様が一緒に負ってくださっているのです。マタイによる福音書11章28節は言います。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」くびきとは二頭の牛の首に渡した木で、これで重い荷物を運ばせるものです。
重い荷物を私一人で負うのではなく、イエス様が一緒に負ってくださり、むしろ私たちが楽に歩めるようにしてくださるのです。イエス様の十字架に込められた愛を信じて、私たちはイエス様に従って行きましょう。