永遠に生きるとは
ヨハネによる福音書 6: 35, 41 – 51
現代の私たちはあらゆる自由を享受しています。自由とは選ぶ自由です。それこそ生と死、親や境遇などは選べないものありますが、学びの自由、職業選択の自由、結婚の自由、どこに住むかの自由、日常生活の自由など限りがありません。しかしこれは現代のことであって、それも世界のある特定の国々のことです。あるデータによると、これらの自由を享受することが出来る国は世界の50%以下で、むしろ共産主義や独裁主義などの国で国民の自由が制限される国々が50%を超えていると言われています。その意味で高度な文明の中にあって便利で自由な私たちは大変恵まれていると言えると思います。もちろん差別や貧困など現代でも依然として解決できない問題はありますが、それでも不自由なく生活できていると思います。
聖書の時代を見てみますと、私たちの生活とは大きな違いがあったことを知ることが出来ます。医学や科学技術的なことはほとんどなく、家族関係は家長制度がありました。父親の考えが第一で、それを受け継ぐ長男が尊重されていました。結婚も自由に恋愛が出来たわけでなく親が決めて相手と結婚する、仕事も親の仕事を受け継ぐのです。そして宗教社会でありましたから、ユダヤ教の律法の教えが人々を厳しく支配し、制限していたのです。そしてイスラエルはローマ帝国の支配下にありましたが、その意味でも束縛された生活に囲まれていたのです。
そんな中で多くの一般民衆は、毎日の食事、生きることに一生懸命だったと思いますが、宗教的な救いを求める人々も確かにいたのです。それは比較的豊かな人々だったかもしませんが、イエス様の噂を聞いてくる人の中には、永遠の命を得る、神の国に入ることを真剣に考える人々がいたと思います。実際に福音書には神の国に入るには何をしたらいいのかと尋ねる富める青年がいましたし、律法学者もいました。
この数週間、五千人の給食の奇跡を皮切りに「命のパン」のことが繰り返し福音書に日課に選ばれています。まず、五千人のおなかを満たされた奇跡を見ると、単に空腹をパンによって満たされたと考えがちですが、大切なことは私たちが何によって満たされるかということです。先ほども申し上げましたが、多くの一般庶民は毎日の空腹を満たすことで一生懸命だったと思います。私たちの現代でも広い世界を見ると飢餓の問題は深刻です。しかし私たちの問題は飢えではなく、精神的な渇き、満たされない思いではないでしょうか。だからと言って私たちはすぐに神様の救いや神の国を求めることはしていません。しかし本当の幸せを確信することにも至っていないのです。何を求めていいかわからないと言っていいかもしれません。
イエス様は「信じる者だけが父なる神を見る」と言っておられます。私たちにとって、求めるべきものは、神様が私たちを愛してくださっていること、そしてその愛はイエス様の十字架によって実現し、完成していること、そして私たちがそれを信じることです。しかし私たちはそれを見失っているのです。
イエス様は出エジプトの出来事の中で、荒れ野で飢えていた民が神様から与えられたマンナという特別の食べ物で飢えをしのいだことを引き合いに出されています。しかし他の奇跡同様、マンナも癒しや給食の奇跡などもその時だけのものです。しかし本当に人を生かすのは、一時的な奇跡ではなく、私たちを養い続ける神の言葉であり、命のパンであるイエス様なのです。
イエス様は空腹の中、荒れ野で悪魔の誘惑に会われた時、空腹を満たすために石をパンに変えるように勧められます。しかし、イエス様は旧約聖書には「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と書いてあると言って悪魔の誘惑を退けられました。聖書は、人を満たすもの、生かすものは、神様の言葉であると一貫して言い続けています。そしてイエス様はその神の言葉そのものであることがヨハネ福音書では宣言されています。人を生かすもの、人の心を満たすものは、神様の言葉以外にはありません。その言葉そのものがイエス様のおられる「ここ」にあるのです。イエス様という命のパンによってこそ私たちは満たされるのです。