2024年6月2日 説教 松岡俊一郎牧師

人のための安息日

マルコによる福音書 2: 23 – 3: 6

イエスさまの弟子達が畑を歩きながら麦の穂を摘んで食べていました。お腹がすいたので、脇にあった麦の穂をもみながら口に入れていたのです。これは当時の法律の律法である申命記23章26節で許されていた行為でした。ユダヤの律法は大変厳しいものでしたが、ジャン=フランソワズ・ミレーの「落ち穂拾い」で有名な、レビ記19章9 – 10節には「穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。ぶどうも、摘み尽くしてはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない。」と言われているように、同胞や外国人をいたわる余裕の幅も持ち合わせていたのです。

さて、ユダヤ人にとって一番大切な祝祭日は、毎週訪れる「安息日」でした。こ れは神様が天地創造の時に6日間かけて天地万物を創造され、7日目に仕事を離れ、安息なさったことから、第七の日を祝福し、聖別されたことに由来します。そして、それは十戒の一番初めに「安息日を心に留め、これを聖別せよ」と定められています。ユダヤ教の律法はこの日を安息日規定の中で様々な行為や働きを禁止しており、それは39項目に及ぶと言われています。
先ほど申し上げたように、イエス様の弟子達が畑を歩きながら麦の穂を摘んで食べた事は、律法である申命記23章26節で許されていたことでした。しかし、ファリサイ派の人々はこれを先の39項目のうちの第8番目、収獲を禁じた項目の違反にあたるととがめたのです。

これに対してイエス様は、サムエル記上21章2節以下を示し、ダビデが祭司アヒメレクのところを訪れ、食べ物を求めた時、そこには祭司たちだけが食べることが許されていた聖別されたパンだけがあり、ダビデはそれを貰い、供の者たちとともに食べた出来事を知らないのかと反論されます。しかし、このことだけを取り上げるならば、ファリサイ派の人々はそのダビデの出来事を十分に知っていたでしょうし、命が脅かされるような事態であれば、命を守ることの方が安息日規定に優先することも分かっていたと思います。むしろそれでは弟子達は命が脅かされるほどの飢餓状態であったかどうか、そこまではなかったであろうことを考えると、ファリサイ派の人々に軍配が上がるように思うのです。

しかし、イエス様が問題にしておられたことは、安息日をどのようにとらえるかの問題でした。現代のユダヤ人作家のハーマン・ウォークという人は「われわれの安息日は、光とぶどう酒をめぐる祝福から始まる。光とぶどう酒はその日(安息日)への鍵である。我々の儀式には厳かさがあるが、中心となる効果は、解放、平和、楽しさ、高揚した精神である」と言っています。つまり、安息日を神様と人との交流の日と捉え、それは自由と平和、喜びの日であるのです。しかし、当時のファリサイ派の人々は、安息日にしてはならないと禁じたことが、守られているかいないかだけを問題にしていたのです。安息日規定は、本来は七日目に労働を休むということが一番の目的でした。人の心と体を休ませるためです。しかしそれはやがて、安息日にはこれらのことをしてはならないという規定が加えられていき、その規定が守られているかどうかだけが問われるようになったのです。律法が人を守るのではなく、律法が人を縛り、自由を奪い、喜びを奪っていたのです。イエス様はその本来の意図を取り戻そうとされたのです。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」と言われたのは、そのためです。

安息日は、神様が人に向けられた愛と慈しみを知り、それを感謝し、神様と結ばれる平安と喜びを享受する日でした。日曜日が主の復活に由来することとは違いますが、その意味するところは共通することが多いと言ってよいと思います。安息日規定をはじめ律法の目的は、人を縛りあげ、裁くためのものではありません。どこまでも神様との関係の中で神様のいつくしみを受け、自由で喜びに生きるためのものでした。
イエス様は「人の子は安息日の主でもある」と言われました。律法の安息日の規定の前に、イエス様が人にまことの安息を与えるお方だからです。

日曜日は復活の日です。安息日規定は労働を休むことによって人の心と体を守るように命じましたが、日曜日はそれよりももっと人に必要なものを与えるのです。イエス様が十字架によって私たちの罪を贖い、新しい命です。日曜日の礼拝において私たちはこの命をいただき、喜びを与えられるのです。しかしここで一つ付け加えておきたいのは、主の日は日曜日だけではないという事です。確かに復活は日曜日に起こりました。主の日としてみ言葉が語られ、聖餐が行われる礼拝がある時には、何曜日であろうと主の日と迎えてよいと思います。
私たちは朝起きたら洗面し、食事し、服を着替えて活動を開始すると同じように、日曜日の礼拝は一週間の初めの洗面と食事です。神様に一週間の恵みを感謝し、み言葉と霊の糧をいただき、そして聖霊の力を受け、新しい義の衣を着て一週間の働きへと押し出されるのです。その意味で礼拝のある主の日は休息であると同時に新しい力を受ける日なのです。教会はみことばを与え、聖礼典を与えます。そして交わりを生み出します。そのような仕方で教会は皆さんに奉仕します。その意味で、主の日である日曜日と主日礼拝は、あなたのためにある日なのです。