2024年4月21日 説教 松岡俊一郎牧師

イエス様は良い羊飼い

ヨハネによる福音書 10: 11 – 18

教会の幼稚園や教会学校を経験したことのある方にとっては、羊や羊飼いというものが聖書と深く結び付いていることを体験的に知っていますが、一般の日本において羊は動物園や牧場で見ることはあっても、羊飼いの姿を直接見ることはほとんどありません。それらはあくまで文章や写真、映像の世界の出来事です。しかし、聖書の世界の中での羊や羊飼いの存在は、きわめて日常の生活と密接に関係していました。
羊飼いたちは、羊を自分の子供のように大切にし、一匹一匹に名前を付けて特徴を把握していました。そして寝起きも共にしていたのです。羊飼いたちの杖は獣を追い払い戦うためのものでしたし、旧約聖書の少年ダビデが巨人ゴリアテと戦った時に用いた石投げの道具も獣と戦う道具であると同時に、群れを離れる羊の鼻先に石をおとして群れに引き戻すためだったと言われます。そのように羊飼いが羊を大切にするのですから、羊もまた羊飼いの声を聞き分け自分の飼い主が誰かということを知っていたのです。このように羊と羊飼いは深い愛情と信頼で結びついていたのです。
このような背景の中で、イエス様は羊と羊飼いのたとえを語られています。しかし、最初の段落でのたとえについて、それを聞いていたファリサイ派の人々は、その話の意味が分からなかったのです。どんなに身近なたとえをもって話されたとしても、はなから聞く耳を持たない人は、悟ることができないということでしょうか。しかし、イエス様はそれで終わりにはされません。こんどは「わたしは羊の門である」と言われます。そして羊はその門を通るし、イエスという門を通ってこそ救いに至ることができると言われます。
人は救いのために考え、様々な努力をします。救いとまで言わなくても、幸せや豊かさのために努力します。しかし、その道を間違ってしまうならば、違う門にはいってしまうならば、迷ってしまい、以前よりももっと不幸になったり、空しい生活になったりすることがあるのです。イエス様はご自身こそが人を救いに至らせるための門であると断言し、この門を通って行くように勧められます。
さらにイエス様は、「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と語られます。ここにイエス様が自信をもって自分を通れと言われる根拠となる言葉があります。「良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」これは言うまでもなく、イエス様の十字架の出来事を指しています。
人は神様に愛されるために生まれ、生きています。そして神様は私たちもまた神様を信じ愛して生きることを願っておられます。しかし実際の私たちは神様のことを知りません。知ったとしてもあまり関心を払わず、その教えに従わず、自分を神としてしまう過ちを犯しています。聖書はそれを罪と呼びます。しかし神様はその独り子であるイエス様を十字架にかけることによって私たちの罪をゆるし、イエス様ご自身もまた命をかけて私たちを救いの道へと導いてくださったのです。「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」の意味です。これが良い羊飼いの姿です。人はこの良い羊飼いの後をついて行くのです。

しかし現実の私たちは誰の声を聞いているでしょうか、どの声に耳を傾けているでしょうか。良い羊飼いの声を聞いているでしょうか。良い羊飼いの声ではなく、自分の心の声や欲求に耳を傾けてはいないでしょうか。あるいは、ちまたの声、噂や流行、間違った常識、強い意見に振り回されていないでしょうか。いろんな理由をつけて。ここに私たちの弱い姿があります。
良い羊飼いの声が聞こえない時もあります。悪い羊飼いの声に惑わされるときもあれば、自分の悩みや苦しみの中で羊飼いの声そのものが聞こえなくなってしまう時もあります。むしろそのような時のほうが多いかもしれません。しかしそんな時であっても、良い羊飼いは私の名を呼び続けています。残念ながらその声はあまり大きくはありません。聞く耳をもっていない時、周りの雑音が大きい時、私たちの心の耳がふさがってしまっている時には、私には聞こえません。そんな時はどうするでしょうか。私の周りには同じ羊の仲間がたくさんいます。この仲間の羊たちが正しい羊飼いの声を聞き分けて、その羊の傍らに立ち、一緒に聞いて行けば、従っていけばよいのです。そのために群がいるのです。
教会という羊の群れは、それぞれが良い羊飼いの声を聞き、全体で聞いています。たとえ一人が聞き損ねても、聞こえなくなっても、一緒に歩むことによって、羊飼いの姿を見失うことはないのです。

神様の愛は終わりがありません。イエス様は最後に「わたしには、この囲いに入っていな他の羊もいる。その羊をも導かなければならない」と言われます。私たちは、囲いのどちら側にいるでしょうか。外側にいるとしても、「その羊もわたしの声を聞き分ける」と言ってくださいます。そしてついには「羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」と約束してくださるのです。救いの完成の姿です。神様はどんな人であっても、やがて良い羊飼いの声を聞くようになり、羊飼いの囲い、つまり天国に入ることができるのです。私たちにはこの約束が与えられています。
私たちは良い羊飼いに導かれる群です。群は群れとして互いに支えあいながら羊飼いの後をついて行くのです。